三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

ガタンゴトンと会いに行く 〜青春18きっぱーのエモい年末年始〜

我輩は貧乏学生である。職はまだない。

東京に住んでいるので、飛行機にしろ新幹線にしろ夜行バスにしろ、地元福岡へ帰省する際は莫大な資金が必要となる。特に年末年始はなおさらだ。

今年は忙しいしお金もないし、別に帰らんでもいいかな、くらいに思っていたのだが、友人から「青春18きっぷ」で東京から福岡に帰ったとの話を聞き、「何それ超おもろそう!」ってことで節約がてら青春することにした。

seisyun.tabiris.com

 

1万円と少しで「青春18きっぱー」の肩書きを手に入れ、僕の旅は始まった。

 

 

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初日は早朝に出発し、大阪までぶっ通しで駆け抜けた。

途中までは順調に座れており、さくらももこ大先生のエッセイをにやにやしながら読んだり、ブログをこしらえたり、メルカリでアコギをポチったりしながら、ゆったりのんびり電車旅を楽しんでいた。

だが富士山の近くあたりで観光客が大量発生し、名古屋あたりまで立ちっぱなしだったのはわりとしんどかった。きっぱーになりたい方は覚悟の上でなるように。

 

電車旅は初めてだったが、わりかし僕に合っている気がした。

普段読みたいけど読めていなかった本、考えなきゃと思っていたけど後回しにしていたことにゆっくりと時間を当てることができた。

電車に乗ることで、世間の喧騒から離れて自分のためだけの時間がブロックできるのは、自己管理能力の低い僕にマッチした方法なのかもしれない。

 

 

電車の窓からは、冬の風景も楽しめる。「美しい」と感じた無人駅で降りてみる。誰もいない。風が冷たい。ふと、歌いたくなる。

 

これは完全に、あれだ。上白石萌歌ちゃんだ。そう、あたしは萌歌。

あの人にあいたい。

あの人を、あたためたい。

あの人に、あたためてほしい。

 


キリン 午後の紅茶 「あいたいって、あたためたいだ。18冬」篇60秒

 

「あいたいって、あたためたいだ。ごっこ」、最高に楽しいので超おすすめ。ぜひやってみてほしい。

やり方は簡単。

人のいない小さな駅で降りて、全力で上白石萌歌ちゃんになりきって”366日”を熱唱するだけだ。変にビブラートをかけてはいけない。透き通った声で、目をつむって物憂げに歌うのがコツ。すきな人がいる人は、思い浮かべて歌うのもエモいね。

 

ちなみに、こんなに都合よく「ただいま」と寄ってきてくれる人は、当然いない。そのため一人で「ただいま」「おかえり」を言う必要がある。また自販機がない可能性もあるので、午後ティーで全然あたたまれない危険も孕んでいる。心してかかるように。

 

 

 

そんなこんなで大阪に着き、大学時代の友人に会って関西に泊まった。

その後、一日かけて福岡に向かった。

これから久しぶりに、家族に会う。ふと僕は電車の中で、じいちゃんが死んだ時のことを思い出した。

 

 

 

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じいちゃんは北海道のド田舎で農家をしていた。

一緒に野菜を収穫したり、トラクターの後ろに乗せてもらったり、広い広い田んぼを走り回ったり。

僕が「やりたい!」と言ったことを、じいちゃんはとにかく何でもやらせてくれた。

 

かけっこをしていたら隣の家のダックスフンドに足を噛まれて大泣きしているときも、頑張って作った巨大なかまくら除雪車に壊されて大泣きしているときも(泣きすぎ)、じいちゃんはいつもそばでにこにこ見守ってくれていた。

トマトに砂糖をつけて食べたり、白ご飯に牛乳をかけて食べたり、ちょっと変わったとこもあった。

 

頑固で意地っ張りで不器用で、思っていることを素直に言えない恥ずかしがり屋で、いつもばあちゃんを困らせてばかりで。

それでも、幼いなりに僕は、じいちゃんの大きな大きな優しさと愛を感じていた。

言葉にされなくても、ちゃんとわかっていた。

だから僕は、僕たち孫のことが大好きなじいちゃんのことが、本当に大好きだった。

 

父の転勤で福岡に引っ越し、じいちゃんに会うことはめっきり減ってしまった。

中学生のとき、じいちゃんとばあちゃんが福岡に遊びにきてくれた。僕は本当に本当に嬉しかったのだが、小学生の弟は当時反抗期で、二人が遠くからきているというのにそっけなくて冷たい態度をとっていた。

僕は昔から温厚で穏やかな性格(を自負している)なので怒りの感情を抱いたことは本当に少なく、兄弟喧嘩も全然しなかったのだが、このときばかりは弟の胸ぐらを掴んでえらく怒ったのを覚えている。

 

それ以来、僕は中高と部活が忙しくなり、北海道に遊びに行ける機会もあまりないまま大学生になった。

そしてある日突然、じいちゃんは、不慮の事故で突然この世からいなくなってしまった。大事な用事があったけれど、全部キャンセルして急いでじいちゃんの元に向かった。そこには、動かなくなったじいちゃんがいた。もっと一緒にやりたいことがたくさんあったのに。話したいことがたくさんあったのに。やりきれない思いに胸が張り裂けそうで、わんわん泣いた。弟も、泣いていた。きっと弟もじいちゃんのことが大好きで、だからこそあの時の態度が胸に残っているのだろう。

 

そのとき僕たち兄弟の隣に立っていた、じいちゃんの娘である僕の母は、どこか凛としているように見えた。きっと悲しみでいっぱいなはずなのに。僕たち兄弟の前では涙ひとつ見せず、まっすぐにじいちゃんを見つめていた。

あのとき母は、何を思っていたのだろう。

そして僕は、両親が死ぬとき、何を思うのだろう。

ちゃんと悲しいのかな。思ってるより涙は出ないのかな。やり残したことがたくさん浮かんでくるのかな。楽しかったことばかり思い出すかな。どうだろう。

 

僕はいわゆる平穏な家庭に生まれたので、今まで家族関係で大きな問題が起こったことはなかった。それなりに仲は良いし、ご飯も行くしけんかもする。どこにでもいる普通の家族。きっとこのまま、平穏に何事もなく「普通の家族」をやっていくことはできるだろう。

でも僕は、今まで逃げ続けてきた一番近くにある見えない問題に、ちゃんと向き合おうと決めた。

家族間でじゅうぶんなコミュニケーションをとってこなかったが故に信頼関係の土台が築けていない今の状態を、何となくうやむやに流してきた。父や母と、面と向かって語り合ったことはなかった。今までどういう思いで子どもたちを育ててきて、何を大切にしていて、これからどうしていきたいと考えているのか、全然知らなかった。

「家族」ってなんなのか、ちゃんとみんなで話したかった。

 

 

だから、そう思っていることを伝えた。 今からでも、作っていけるんだから。

年越しそばを食べながら、新しい、普通の家族としての一歩を踏み出した気がした。 

 

実家では、数年ぶりに家族全員が集まったので家族写真を撮ったり、大人になってからちゃんと話したことがなかった父方のじいちゃんとじっくり話してみたり、思春期真っ只中で口数の少ないいとこに無駄絡みしてみたり、明らかに自分の人との関わり方に変化を感じ、胸躍る正月だった。

それは、思い残すことがないようにひとつひとつのつながりを大切にしたい、という思いの表れなのかもしれない。

思い残すことがまったくないという状態は難しいかもしれないけれど、なるだけ少なくしたい、いつかくるお別れの時に、つらい涙を流したくないなと思う。

電車は、ガタンゴトンと僕を過去へと連れて行った。

じいちゃんとの別れは、確かに僕の背中を押してくれている。 

 

 

 

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福岡では、会いたい人に会って、やりたいことをやった。 めちゃめちゃに濃い時間だった。日常なんて自分自身でいくらでも濃くしていけるんだと感じざるをえない。

「正月」という意味を与えられた、何でもないはずの日々。例年に比べると、年末年始はこうであるべきだ!みたいな規範に心が縛られることなく安らかに過ごせている感覚が嬉しかった。

 

福岡最終日には、結婚してこどもが生まれた友人とその家族に会い、一緒に元バイト先のおもちゃ屋さんに行って、ごはんを食べてさよならをした。

 

その日は広島のゲストハウスに泊まった。

hostel-en.com

 

去年の夏休みに泊まった札幌のゲストハウスがとてもよかったので今回もゲストハウスに泊まろうと思っていたが、案の定最高だった。

通算1600台以上にお世話になったという、ヒッチハイカーのオーナーを始め、広島豪雨の復興ボランティアがきっかけで休学して働くスタッフや、大阪の鉄オタ高校生、TABIPPOの学生ヒッチハイカー、福岡のフリーカメラマン、普段は小学校の先生をしている日本一周中のオーストラリア人、進撃の巨人を観ながら"cooooooooooool!!!"と叫ぶポルトガル人などなど、いろんな人と出会えて愉快愉快。

 

僕が泊まった札幌のゲストハウスのことをスタッフさんが知っていて嬉しくなったりもした。

(札幌のゲストハウスの話はこちら)

pyonsu.hatenablog.com

 

 

次の日は、お寝坊をしてしまい時間は少なかったが、人生初の原爆資料館へ向かった。

約10年前、小学6年生だった僕は、修学旅行で長崎を訪れた。原爆の怖ろしさ、戦争の悲惨さを学び、頭で理解はしていたものの、あまり深く考えることはしなかったように思う。時が経ち、私はふと、広島に行きたいと思い立った。日本人であるというアイデンティティーがそうさせたのかもしれない。外国に長期滞在する今年だからこそ、ちゃんと日本を見つめたいと思った。

 

当たり前の日常が一瞬にして消え去る恐怖を、想像した。僕は戦争を経験したことはない。降ってくる爆弾から逃げ惑ったことも、大切な人を目の前で失ったこともない。

悲しい記憶は時とともに薄れていくかもしれないけれど、僕たちにとって大事なのは、わからないものをわかろうとすることだ。

 

資料館にあった対話ノートには、「アメリカ人はこわいとおもった」という子どもの言葉が書かれていた。一方で、”Thank you for forgiving us.”という外国人の言葉もあった。

平和とどう向き合っていくか、僕の中で答えは出ていない。だからこそ、考え続けていきたい。スウェーデンでも、いろんな人と話そう。

 

電車は、ガタンゴトンと僕を広島へと連れてきた。

自分がこの世に生まれた日にここに来ることができたのは、何かの偶然だろうか。

とにかく、広島にこれて、本当によかった。

 

 

 

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それから関西でまたまた会いたい人に会いまくり、東京行きの普通電車でぱちぱちとこれを書いている。

丸々4日間電車に座っていたおかげで僕の腰は爆発寸前なのだが、飛行機よりも、夜行バスよりも、新幹線よりも、今の僕には電車が合っていた気がしている。 

 

 

ガタンゴトンと音を立て、ゆっくりと、でも確実に進んでいく電車は、僕を僕の奥深くへと連れて行った。

後回しにしていたこと、向き合うことから逃げ続けていた問題、思い出さないようにしていた過去、これからの自分。

ひとつひとつと、ちゃんと向き合うことができた。

 

 

この旅が終われば、僕はまた東京へと放たれる。目まぐるしい日々が戻ってくる。

その準備は、もうじゅうぶんにできている。

 

忙しなく人が行き交う東京で僕は、流されないように、地に足をつけて必死で食らいついていく。

そんな日々でも、たまには空を見上げて。歌いながら歩いて。

 

電車に乗ってもいい。乗らなくたっていい。

自分を見失いそうになっても。もういつだって僕は、僕の力で、ガタンゴトンと僕に会いにいける。たしかに僕は、ここにいる。