三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

星野・エネルギー・源

今年に入って、生きるエネルギーが湧かなすぎて困っていた時期があった。

 

朝は布団から出れない。

外に行く気力もない。

学校に行っても元気がない。

やる気が起きない。

何も頑張れない。

 

なんでだろう。

たくさんのきらきらした人に会って、生気を吸い取られたのだろうか。

 

 

頑張ってる人からすれば、ただの根性なしの堕落したニートに見えるんだろう。

「できないじゃなくて、やるかやらないかだろうが!!」と修造ばりに怒られてしまいそうだ。

僕もそう思う。頑張れない自分がいる。それを認められていない。悔しい。

誰だって頑張れないときはあると思うけれど。その頑張れない自分も含めてまるっと自分なんだと頭ではわかっているけれど。なかなか難しいもんだ。

 

 

 

じゃあ、今まで頑張れていた自分はなんだったんだろう。

なんでここまで進んでこれたんだろう。

僕のエネルギーの源は、なんだったんだろう。

何かに追われているような、焦燥感だろうか。

 

 

そんなことをぐるぐると考えていると、先日アマゾンプライムで観た、映画「怒り」を思い出した。

広瀬すずの演技が衝撃的で、あの子には可愛いヒロイン的な役ではなく、ああいう感情をむき出しにした役をたくさんやってほしいなどと思った。

 

この映画では、タイトル通り、行き場のない"怒り"が繊細にリアルに描かれている。

 

 

もちろん僕らの周りにも、怒りは溢れている。

 

とっておいたお菓子を妹に勝手に食べられたり。長蛇の列に並んでいる最中におばさんに割り込まれたり。財布を盗まれたり。

 

理不尽な差別を受けたり。人格を否定されたり。愛する人を殺されたり。

 

 

その大小はあれど、怒りは、人を動かすエネルギーになり得る。と同時に、それは繊細で、危うさも兼ね備えている。

 

僕たちが日々感じる怒りは、きっと前者の方で、「いや、それは(人間として、あるいは社会的に)あかんやろ」という許せない気持ちとか、自分のポリシーに反することが起こった時に出てくるものだと思う。

これに対しては、相手にその怒りをぶつける、何とかして戦っていく、自分が諦める、折り合いをつける、などといった対処法があるだろう。

 

映画「怒り」で広瀬すずが表現していたのは後者の方で、自分自身が深く深く傷ついたときの、どうしようもない、腹の底から湧き上がってくる根源的な怒りだった。

これに関しては、自分が深く傷ついているので、復讐という形で相手に傷を負わせたとして、必ずしも自分の怒りがおさまるわけではないと思う。自分の傷を背負って、向き合って、どんなに苦しくてももがいて生きていくしかない。その苦しみを背負った上でどう幸せになれるか考え続けなければいけない。

 

 

僕は今まで生きてきた中で、「怒り」を感じることはあまりなかったように思う。

兄弟喧嘩はした記憶があまりないし、親や先生、学校に対して強い憤りを感じたこともあまり覚えていない。怒ったところでどうにもならない、自分が何かを言って波風が立つくらいなら言わないほうがいいと諦めていたのかもしれない。

 

僕はずっとバレーボールをやってきたが、一緒にやってきた仲間やチームに対しても怒りを感じたことは少ない。

怒りを表にすぐに出せる人がこわくもあり、羨ましくもあった。何でそんなに自分の感情を表現できるのだろうと思っていた。

 

僕が今まで怒りを感じてこなかったのは、というか感じていたこともあったと思う、間違いなく。でもそのときの振る舞い方も、その怒りとどう向き合って解消すればいいかもわからずに、というか考えずに、見過ごしてここまでやってきた。それはきっと、自分の意志がなかった、もしくは弱かったからなのかもしれない。

 

何かを大切にしたい、自分はこうなりたい、こんな人間でいたい、こんな社会がいいな、そんなふうな強い意志がなかったから、適当に折り合いをつけてやってこれた。

自分を大切にしてこなかったから、自分を曲げることに抵抗を感じなかった。

 

 

でも最近はやっとちょっとずつ、怒りが湧いてくるようになったきた気がする。全然言語化できていないけれど、大切にしたいものが少しずつわかってきた気がする。

年を取るというのは、そういうことなのか。ちょっとずつ自分のことを知って、大切にしたいものが増えていくことなのかもしれない。

 

 

怒りながら生きていきたい、とは思わないけれど、小さな怒りや憤り、悔しさをぷんすかと感じたときに、見過ごさないように生きていきたいと思う。

 

一方で、他人がどうであろうと別にそれってどうでもよくね、今のおれはおれでハッピーだし、っていう感覚も大事していきたい。

怒りのエネルギーだけで生きるのってきっとしんどいから、今自分にあるものにいつも目を向けていたい。

でも今ある幸せは当たり前ではなく、継続していくためには努力が必要だから、そのために頑張らなきゃいけない。

 

 

「あるもの」を続けていく、ハッピーるんるんエネルギー

「ないもの」を掴みにいく、変えていく、怒りぷんすかエネルギー

この両方のバランスをいい感じに保ちながら、肩肘張らずに生きていきたい。

いやもう少し張れよばかやろうって言われそうだけど。

 

 

今まで自分のためだけに書いていたブログを公開するようになって、誰かと共有したい気持ちを綴ったきちっとした文章と、自分の中に秘めておくためのぐちゃぐちゃーーっとした文章とを分けるようになった(これもぐちゃぐちゃに見えているかもしれないがきちっとの部類)。

 

自分の綺麗な部分だけを表に出している感覚、だらしなくて怠け者でへぼへぼな自分をどんどん内に追いやっている感覚もあって、なんだか気持ち悪い。

 

 

誰かに読まれる文章を書くのは、とても身が引き締まる。読んでくれている人の時間を奪っているのだから。自分の言葉で誰かを勇気づけられることもあれば、傷つけてしまうこともある。でも、書くこと自体はとても楽しいと、そう思えている。

 

文章にすると、放たれた言葉たちは僕から離れていって、僕の知らないところで勝手に僕が作られていく怖さがある。

まあ好きでやってることだから別にいいんだけど、なるべく勝手に作られる僕と生身の僕が乖離しすぎないようにしたいというか。

 

すべての物事はある側面からしか見えなくて。何かを言えば、いやそれはこういう見方もできるでしょ、と言われる。当然のことだ。それぞれ見ている世界が違うのだから。僕からはこう見えるんだけど、あなたからはそう見えるんだね、ってだけで。でもそれを恐れていたら何も始まらないわけで。

せめて僕は、僕の見る世界を言葉にしたい。間違ってたら考え直せばいいし、失敗したらやり直せばいい。

いい意味でも悪い意味でも人間くさく言葉を紡ぎながら、ハッピーぷんすかエネルギーで、ずかずかのんびりいきたいなあと思う今日この頃であります。

 

 

 

さて、みなさんの生きるエネルギー源はなんでしょう。

こっそり教えてくれたら、僕のエネルギーになりますぜ。