春は出会いと別れの季節。
僕は泣き虫なので、悲しくても嬉しくても感動しても、心が動くとすぐに涙が出る。
今年の春は、別れの涙はなかった。が、性懲りもなく、今日も今日とて涙してきた。
今日、中高生の秘密基地こと『b-lab』にて、春フェスと呼ばれる一大イベントが開催されたので、お邪魔してきた。
b-labについてはこちらの記事へ。
それと同時に、本日をもってb-labのフロアキャストが終了した。
b-labでのボランティアは去年の12月からしていたのだが、ここ1ヶ月塞ぎ込んでいたので全く行けなかった。しかし、ちゃんとけじめをつけたかったので最後の振り返りに顔を出してきた。
b-labに関わったことで気づいた、これから大切にしていきたいことは二つ。
「自分を許すこと」と、「他者との関わりの中で自己を知ること」だ。
中高生のサードプレイス的な場所に対して、継続的に大学生がボランティアとして関われるシステムがあること
ボランティア同士がつながったり、活動を振り返ったり、自ら行動できる自由さが担保されていること
環境や設備・人材を充実させることで様々なおもしろいことが巻き起こること
などなど、これから先に活かせそうな仕組みを学べたのもとてもよかった。
しかし何より、迷惑をかけたのにもかかわらず、あたたかく迎え入れてくれたb-labのみなさんと出会えて本当によかったなあと思う。
春フェスの最後には、卒業式が催された。
高校3年生は、卒業するともうこの施設に来ることはできない。正真正銘の、卒業だ。
僕が涙したのは、『先輩の話』と題して、卒業する3年生が紙芝居で自分の話をしてくれた時。
想像を絶するほどのつらさを抱えたその子の人生に思いを馳せただけで、胸が苦しくなった。
「傷つかなくちゃ本物じゃないよ」なんて秋元康は某アイドルに歌わせるけれど、本当に深い深い傷を負った人を前にして、そんなこと絶対に言えたものではない。
それでもなお、その傷を抱えながら懸命に前に進もうともがき、支えてくれた人に感謝の言葉を伝える彼の涙は、言葉にできないほど美しかった。
これに関しては、僕が涙することは、まあ予想できる。
しかし二度目の涙は、僕にとってまさかのタイミングだった。
それは、3年生とb-labのスタッフさんがダンスを踊っている時だった。
卒業する子と、学生スタッフと、そしてスタッフが目の前で全力で踊っている。
僕はその光景を見て、笑っているのに、なぜだか泣けてきたのだ。
いまだにその理由はよくわからないが、きっと、大の大人が高校生とアホみたいに楽しそうに踊っていたからだろう。
きっとみんな忙しい中練習したんだろうな、いろんな思いがこもっているんだろうなと想像した。
歌やダンス、演劇など、エンターテインメントが人の心を動かすのは、日々のつらさや悲しみもあるけれど、人生はそれだけじゃないぜと思えるからなのかもしれない。
とにかく、あのダンスは最高だった。ただ、それだけだ。
その理由をとやかく書くのは野暮な気がするのでこのへんにしておこう。
僕はよく感情が動く泣き虫だけれど、涙が出ない人もこの世にはいる。
よく、感動の映画を観て泣かない人に対して、「え、感情ないん???」とか言う人がいるが、決してそんなことはないだろう。
心が動いていたとしても、それが涙としてわかりやすくアウトプットされるかどうかは、人それぞれだ。
「涙に色があったら、人はもっと優しくなる」とこれまた秋元康が某アイドルに歌わせているが、涙に色があるかどうかの前に、どんなに悲しくたって嬉しくたって涙を流さない人もいるということを、泣き虫の僕は忘れてはいけない。
そもそも「色」があったらという仮定は、「涙を流さない人」や「色がわからない人」がいるという前提を無視している。
本当の優しさとは、そんなことではない。そんなのまだまだわからないけれど。
少なくとも僕は、目に見えるもので簡単に判断して決めつけたり、自分の当たり前を人に押し付けたりするような人ではいたくない。
「サイレントマジョリティーになるな」というメッセージも悪くないけれど、「その影にはサイレントマイノリティーがいる」という事実に目を向けられる人でいたいなと思う。
桜を見ると泣きそうになるところまで来てしまった齢24の僕だが、なりたい自分を日々模索しながら、自分の感情を丁寧に見つめながら、人間らしく人との関係を楽しみながら、新しい春を存分に味わいたい。
とりあえず、はやく花粉たちは自分の居場所を見つけて落ち着いてくれ〜