僕は、銭湯が好きだ。
銭湯が好きで、歩いて通える範囲に住むことを決めた。
仕事がうまくいかず落ち込んだとき
失恋してむしゃくしゃしたとき
人間関係で悩んで、何もかも投げ出したくなったとき
どうしようもなく消えてしまいたいとき
僕はいつも、銭湯に行く。
体を洗い流してお湯に浸かると、深く呼吸ができる。日々働く中で、いかに呼吸をしていないか気付かされる。「息苦しい」ってなんだか感覚のように使いがちだけど、息苦しいときって本当に息ができていないんだな、と思う。
深く息を吸い込んで吐くと、いろんなものに占拠されていた頭がからっぽになって、「まぁいっか」と思えたり、「自分のあの言葉もいけなかったよな」と素直になれたりする。
どんな時でも、どんな自分でもあたたかく受け止めてくれるお湯が沸いていて、番台さんの「おやすみなさい」がやさしく寄り添い、明日へ背中を押してくれる。
そして、「きっと明日も大丈夫だ」「こんな自分でも、大丈夫だ」と思いながら、眠りにつく。
思えば僕は、ずっと「大丈夫」な場所を探して生きてきた。
「こんな自分がここにいていいんだろうか」と、いつも不安な気持ちでいっぱいだった。
「ここにいたら自分はずっと傷つけられ続けるだろう」
「この人に自分の胸の内を告げたら、きっと否定されるだろう」
人との出会いの中で、自分から壁を作ってビクビクして、それでもここで生きていくしかないとしがみついてきた。
大人になって、「本当の自分でいて大丈夫だ」と思える場所や友人に出会うことができた。「大丈夫じゃない」関係を断ち切って生きることも覚えた。
それでもまだ、大丈夫だと思っていた人でも、思わぬ言葉に刺されたり、急に突き放されたりすることがある。物理的に離れ離れになることもある。
人間関係の中にある「大丈夫」は、変わりゆく。いつもそこにあるわけじゃない。それは仕方のないことだとわかっている。
だからこそ、街にいつもある銭湯に行って、「自分は大丈夫だ」と思えることに、僕はとてつもなく救われている。少なくとも僕にとって銭湯は必要であり、一緒に同じ浴槽に浸かっている誰かにとっても、必要な場所に違いないと思う。
そんな銭湯で、この冬から、働くことになった。
働いてみて、僕が感じていた気持ちの良さは、銭湯を守る人々の隅々まで行き届いた仕事や思いやりのうえにあることを実感した。
どんな人も受け入れる銭湯で働く人は、どっしりとしていて、あたたかくて、安心感がある。僕の「大丈夫」な場所は、この人たちに守られていたんだなと知り、じんわりする。こんな人になりたいな、と思える人がたくさんいるのって、いいよね。
そして何より、朝5時から自分でピカピカに磨いた大きな浴槽に、朝日を浴びながら浸かる行為が、天に召されるほど気持ちがいいことを知ってしまった。
勤務中にスキップしてしまうほどに、今は大好きな銭湯で働けることが心から嬉しい。
僕にとっての、誰かにとっての「大丈夫」な場所を、微力ながら精一杯守っていきたいなと思う。