三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

おもちゃ屋さんと遊園地

どうも、お久しぶりです。

 

突然だが、先日からアルバイトを始めた。

あるおもちゃ屋さんの店員と、ある室内遊園地のスタッフの掛け持ちだ。

 

大学院で教育を学ぶので、子どもと関わりのある職を選んだ。

どちらも「子どもの遊び」と関わる点では共通しているが、実際に働いてみて感じたことがあった。

 

 

 

「日常」と「非日常」

 

ここでいうおもちゃとは、子どもの遊び道具のこと。おもちゃはたいてい家に置かれ、子どもは日々おもちゃに触れ、夢中に遊ぶ。つまり、おもちゃは子どもの「日常」に溶け込む。

もっといえば、積み木やぬいぐるみなどの、親が買い与える「もの」としてのおもちゃだけでなく、石ころや土、虫でさえも、子どもがそれに触れ夢中になって遊んでいるものであれば何だっておもちゃになり得る。

 

一方、室内遊園地は「非日常」にあたる。日常の生活では体験できないこと、ものがある遊園地に子どもは興奮し、同じように夢中になって楽しむ。

親は、非日常の空間で子どもに楽しんでほしい、何か学び取ってほしいというように、それぞれ何かしらの想いを抱えて足を運ぶ。

 

おもちゃ屋さんで、ほしいおもちゃを手に取り、買ってもらうと嬉しそうに目を輝かせる子ども。

遊園地で、未だ経験したことのない感動や衝撃に出会い、興奮して笑顔弾ける子ども。

どちらの瞬間も僕はたまらなく好きで、その瞬間に出会うたびに込み上げてくるものがある。

子どもにとって、かけがえのない感動の1ページに立ち会えることは本当に幸せなことだと改めて思う。

 

おもちゃと遊園地。

どちらも子どもの「遊び」に関わり、子どもが「夢中になる」という点で一致しているが、日常と非日常は大きく違うようで同じところもあるということに、僕は両方で働いてみて気づいた。

 

 

 

思いっきり全身を解放してほしい

 

僕は、未来ある子どもたちに人生を夢中に生きて欲しいと願っている。

日常の中で夢中になること。

非日常の場で夢中になること。

どちらもすばらしいことで、子どもにとってはとても素敵な経験になる。

ああ、尊いなあと子どもの姿に思いを馳せる中、感じたことがあった。

 

室内遊園地には、大人の腰くらいまでの高さがあるボールを転がして遊ぶコーナーがある。

この大きさは、未就学児にとっては非常に大きなものであり、加えてこのボールは転がすとさまざまな色に点滅する仕組みになっている。そのため、大抵の子どもは興奮し、喜びはしゃぎまわる。

 

しかしこのボールで遊ぶうえで、大きく3つのルールがある。

ボールに乗らないこと。

ボールを蹴らないこと。

走らないこと。

 

他にも、投げてはいけない、塀を飛び越えてはいけない、寝転がってはいけない、などたくさんの守るべきルールが存在している。

もちろんこれらは、子どもたちが怪我をしないよう、安全に楽しく遊ぶために決められているもの。何もスタッフも子どもを抑圧したくてしているわけではない。

しかし我々スタッフは、声を張り上げこれらの注意を常に呼びかけなければならない。

 

ある日僕は、子どもたちに口うるさく注意をしながら胸が苦しくなった。

子どもたちを守るためにあるルール。

でもこれは、子どもたちの「全力の遊び」を制限してしまっているのではないか。

本当は、思いっきり走り回ってほしい

思う存分遠くまで投げてほしい

めいっぱい力強く跳んでほしい

全力で蹴りまくってほしい

全身全霊で暴れ回ってほしい

 

僕は子どもたちに、身体を思いっきり動かして遊ぶ本当の楽しさを、心から感じてほしいだけなのに。

 

でも、そこは商業施設であり、たくさんの人がいるため怪我をさせる訳にはいかない。

たしかに非日常という点においては、光る大きなボールが目の前にあることは新鮮で衝撃の経験になるかもしれないけれど、スタッフとして働いてみて初めて、そこが「全身を解放して遊ぶ」という点において息苦しい場所であるということを感じたのだった。

 

 

 

日常の遊びを支える

 

おもちゃ屋さんと遊園地。

私はこの「日常」と「非日常」の遊びを提供する双方で働いてみたからこそ決意できたことがあった。

 

それは、自分が「日常」の遊びを大切にしていきたいということだ。

 

子どもは、何かの目的のために遊ぶわけではない。

遊ぶことそれ自体がおもしろいから遊ぶのだ。

遊ぶことを通して、やってみてできたときの喜びや、競争することの楽しさ、できなかったときの悔しさ、友達の存在、いろんなことを学んでいく。

大人は何かを学ばせるために「手段」として遊びを提供したがるけれど、子どもは遊びそのものを目的とし、結果として何かを学んでいる。

だとすれば、我々がすべきことはその遊びを全力で支えてあげることだと思う。

そして子どもが遊びに夢中になればなるほど、その付加価値は最大化されていくだろう。

 

残念ながら、今の日本の子どもの遊びを取り巻く環境は必ずしもいいとは言えない。

習い事で忙しく、両親は働いていて、遊ぶ時間がない

都市は開拓され、公園は整備され、遊ぶ空間がない

地域の繋がりが薄れ、遊ぶ仲間がいない

 

これは現代の日本の悲しい現実だ。

しかし、考えてみると、子どもの周りに存在する時間は、圧倒的に「日常」のほうが多い。日常の遊びこそ、豊かな未来に繋がる糧になるのだ。

 

 

子どもたちが全身を解き放って思いっきり遊ぶ日常を守り、豊かな身体を育てる

 

日常の遊びを通して、「できないからこそおもしろい」という夢中になる楽しさを伝え、生涯夢中になって生きていく心を育てる

 

 

そんな人になりたいと、僕は思う。

 

年も明け、先日23歳になったばかり。今日は、そんな決意を胸に誓った、記念すべきなんともない一日。

 

 

 

 

 

補足:やってみる is 大事

 

今回、2つの場所で働いてみることで気づけたことがたくさんあった。

やる前は、時間を組み合わせるのも大変だし週6で働いて過労死するかもしれないし、どっちかでいいかもしれないなくらいの気持ちだった。

でも、やってみて本当によかった。

行動するから感じることがあり、感じたことから考えることができるのだなと身を持って体験できたのはとても大きな意味があった。

 

これからもこの精神、忘れないぞ!