読みおわってまずぼくの中に浮かんだ感情は、「自己嫌悪」だった。
主人公の時田秀美は、高校生である。
勉強はできないが女にはモテる、セックス大好きなマセた男で、高校生にして年上の美人お姉さんと付き合っているからまいったもんだ。
秀美にはお父さんがおらず、お母さんとおじいちゃんに愛情を注がれ育ってきた。
秀美は、何かにつけてお父さんのことを言われることにうんざりしていた。
「お父さんがいないのにすごい」
「お父さんがいないからそんな子に育った」
そこにある事実に対し、勝手な解釈で物事を決めつける大人たちの惨めさを、この本は秀美の言動を通して世の中に訴えていた。
ぼくは、この作品は全体を通して、「つまらない」大人へのドロップキックをかましているように感じた。
それはつまり、自分へのドロップキックだった。
ドロップキックをくらい、つまらない人間であるぼくはダメージを受け、自己嫌悪に陥ったのだった。
秀美は、正論で塗り固め正しさを押し付けようとする教師をひどく嫌った。
そんな教師に対し秀美は、「あの人たちの言う良いこと悪いことの基準て、ちっとも、おもしろくないと思う」と言い、秀美の母である仁子は、「社会から外れないように外れないように怯えて、自分自身の価値観をそこにゆだねてる男って、ちっとも魅力ないわ」と言い放った。
周りの友人やマスコミ、多くの人々が言う多数派の意見を何の疑問も持たず受け入れ、それを常識として形成し知らず知らずのうちに生きてきた。
そんなぼくにとって、小学生の頃から大人に立ち向かい自分の意志で道を切り拓いてきた秀美はひどく羨ましかったし、
遊び人ではあるが、「秀美を素敵な男性に育てたい。自分は、自分であるってことを解っている人間にしたいの。人と同じ部分も、違う部分も素直に認めるような人になってもらいたい。」と信念をもって秀美を育てる母仁子はとてもかっこよく思えた。
作品の中に、ぼくの心に最も深く刺さった秀美の言葉がある。
「先生、三角形の三つの角を足すと百八十度になるでしょ。まっすぐです。痛い角が三つ集まるとまっすぐになれるんです。六つ集まったら、三百六十度になるんだ。まん丸です。もう痛い角はなくなってしまうんです。」
秀美は、お父さんがいないということで自分は一つ目の角を持っていると言う。
お父さんがいないことは、秀美にとって悲しいことだった。しかし、そのことで他人に勝手な判断をされとやかく言われることのほうがよっぽど悲しいことだった。
つまりは、ここでいう「角」とは辛い過去や悲しい出来事による、「心の痛み」を表しているのではないだろうか。
心の痛みを抱え、その痛みを自覚し受け入れ、他人の痛みに共感する。
痛みを知り痛みを分かち合うことで、心は丸く、優しく、強くなっていく。
こんなことを11歳にして教師に向かって言い放った秀美を、ぼくは尊敬する。
なぜ秀美のこの言葉がぼくの心に深く刺さったかというと、ぼくは子供時代に痛みを背負ってこなかったからだ。
自分は傷つかないように、そして人も傷つけないように、都合よく、ずるく生きてきたのだ。
痛みを知らずに育ったぼくは、秀美のように、大人の前で「強く」生きる必要はなかった。
何かが起こった時に、それを疑問に思うこともなかった。
ぼくは大学生になり、ある人と出会ってようやく、自分だけ傷つかないように「ずるく」生きてきたことに気づき、涙を流して自分を責めた。
自分を守ることによって傷つけてきた人たちを思い、胸が痛んだ。
同時に、自分を大切にしてくれる人を大切にできず、心がぼろぼろになった。
たしかに痛みを背負って生きてきた人は、強いなとおもう。
ぼくには想像もし得ないような悲しみや、裏切りを経験してきた人は、「強く」ならざるを得なかったのだろう。
そんな人たちを、強いな と一言で言うのは、本当におこがましいことだろう。
ぼくはこれからの人生を、悲しみや痛みを自ら背負うべく体当たりで生きていきたいとおもうほどマゾヒスティックではない。
でもそんなことも必要なのかなと少し思ったりもする。
ただ、ぼくが大人になってから感じた痛みは、一生忘れずに生きていくと誓っているし、
大切な人の痛みも全部いっしょに感じて共に歩んでいきたいと思っている。
ざっくりまとめてしまうと、「若いうちに苦渋を味わっといたほうがいいよ」みたいに聞こえてしまうが、そんな簡単なことではないし、それを推奨しているわけではないんだけど。
人の強さも弱さも受け入れて、自分の人生を力強く歩んでいきたいなあと、そう思うのです。
そんなことを思わせてくれたこの小説に、出会えてよかった。
ぼくの自己嫌悪は、しばらくは消えないだろうけどね!!