三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

呪いを解きたい

ちょうど約1年前、僕はこんな記事を書いた。

 

pyonsu.hatenablog.com

 

実家でフリーターをしてたので、本を読む時間や考える時間、思考を整理して文章に起こす時間が有り余っていた時期だ。

巷で話題だった、漫画「君たちはどう生きるか」を読んで感じたことをつらつらと書いていた。

その最後の部分に綴ったのが、こちら。

 

先日、中学時代の同期ふたりと久しぶりに酒を交わした。 思い出話やしょーもないエロ話に花が咲いた。 酒が進み、近頃まとまりだした自分の生き方、考え方を話した。

”おれは、就活に失敗して、半年で会社を辞めた。夢中になって働くことのできないつらさを思い知った。だから、もう一度考え直し、自分が夢中に生きていくための道を選んだ。みんなも、諦めてほしくないんだ、自分を縛り付けず、多くの人にいきいきと働いてほしい。”と。

冷静になった今、文字にしてみるとくさすぎる。無性に恥ずかしくなる。 でも、本心だった。僕は、大まじめだった。 ふたりに言われた言葉は、こうだった。

「誰もがおまえみたいに生きられるわけじゃないよ」

「やりたくないことをがまんして働いとる人がたくさんおるんよ。あんたはやりたいことに向かっていける側の人間なんよ。うらやましいわ。」

 

大学を中退し、今は地元で働いているふたりに大まじめに反論された。

「うちらは、自分で道を切り開いていくことができなかった人間なんよ。だから、あんたには期待しとうとよ」

 

僕は、就職し、半年で退職し、大学院へ進む。それは、全部自分で決めたことだ。 自分は夢中に生きられないことがつらかった。だから、どうしたらそうしていけるかを考え、その道を選択した。夢中に生きられないことは、誰にだってつらいことだと思い込んだ。 でも、それは決めつけでしかなかった。 ふたりの友人も、自分で中退することを決め、生きていく道を自分で選んでいた。 何が幸せかどうかは、ふたりが決めることだ。 僕は幸せになるために、夢中に生きるために道を選んだし、これからもそうしていくけれど、 自分で決めた道の上でのんびり歩きながら、幸せを探していく人もいるんだと、思い知った。

でもやはり、身近な人が、自分にはやりたいことなんてない、努力していけるのがうらやましいと言い、自らの可能性を信じ切れずに諦めてしまっていることは、つらかった。 後ろ向きに考えず、自信を持っていこうと彼らが思い直すほど、今の僕の言葉は彼らに届かなかった。

だからこそ、僕はもう一度教育を学びに行くのだ。 「夢中になる」ということが持つ可能性を、追求しに行くのだ。 幼少期に遊びや勉強に夢中になる経験を重ね、その楽しさを心に刻むことによって、生涯を通して夢中に生きていく喜びを追い求める大人になれるのではないか みんな、その可能性を秘めているのではないかと、僕は信じている。

少なくとも、僕の人生を持って、証明していきたい。

漫画「君たちはどう生きるか」を読んで - 三日坊主の三年日記

 

過去の自分の書いた文章を読むと全身がむず痒くなるのはなぜだろう。この時の自分はこうだったよなあ、と鮮明に蘇って恥ずかしくなる。今の自分と同じ部分もあれば違う部分もあって、地続きの自分のような、全くの別人のような気もする。

 

 

実は今回の帰省で、文中の中学時代の同期と飲んできた。僕はというと、約一時間の遅刻をかましてしまい申し訳なさを醸し出して登場したのだが、相変わらずしょっぱなからしょうもないエロ話を展開してくる彼らのおかげで楽しく再会することができた。感謝感謝。

給料の9割をエロにつぎ込む性欲権化男と、元彼にゾッコンすぎたせいで恋の仕方がわからなくなった恋愛盲目女は、ぼくが帰省した際に会ってくれる数少ない大切な友人である。

 

彼らと再会し、ぼくは一年前に綴ったブログを思い出した。あの時僕は、「自分の人生を諦めてほしくないんよ」とストレートに言っても、自分の人生をどこかで諦めている彼らには何も伝わらなかったことが悔しかった。大切な友人が自分を肯定できず、自分で自分の可能性を潰してしまっていることが悲しかった。でもあの時の僕の声は彼らに届かず、その気持ちをブログに書くことしかできなかったのだ。

 

あれから一年が過ぎ、僕は好奇心の趣くままにいろんな場所へ飛び込み、いろんな人と会って話した。そうするうちに、少しずつ変わっていった。たくさんの変化があったけれど、やっぱり大切な人に、「自分の人生を諦めてほしくない」という思いは変わらなかった。

 

一年越しに、変わらないその思いを彼らに伝えた。けれどやはり、届かなかった。頭が悪い、学歴がない、ブス、能力がない、運動神経が悪い、夢がない、といった、自分を縛り付ける「呪い」の数々を振りかざして、反論された。おまえらは一刻もはやく、登場人物全員がもれなく呪いから解放されてハッピーになる最高のドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」をTSUTAYAで借りてイッキミしろ!!という感じだ。

 

そこで僕は、一年前に書いた記事を彼らに見せることにした。ほんとは自分の中に留めておくつもりで書いたものだったが、僕がどれだけ本気で彼らのことを思っているか、知ってほしかったからだ。

 

彼らは、じっくりと時間をかけて読んでくれた。それだけでも十分嬉しかった。読み終わったあと、「おまえがこんなにおれらのことを思ってくれてたなんて、知らなかった。」と性欲権化男が言ってくれた。「少しずつ自分にとっての幸せを見つけられるようにがんばる。」と恋愛盲目女が言ってくれた。

やっと、やっと思いが届いた気がして、僕は本当に本当に嬉しかった。ここで彼らが感じたことを、彼らが自分の中でどう噛み砕いて、これからの日常でどうアクションにしていくのかは僕にはわからないけれど、まずは大きな一歩なんじゃないかなと思う。

 

 

 

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前回の記事への感想として、友人が「君は今自己形成の途中で、自分自身を完全に受け止めきれていない。だからこそ今行動を起こせている。でもその野心は、自分を救うことからの逃避やすり替えなのかもしれない。問題を先延ばしにしているだけなのかもしれない。」的なことを言ってくれた。他にもいろんな人から連絡がきて、ゆっくり話そう、と約束をした。大学時代の後輩とは、5時間近く電話で話した。「頑張りたいと思っているのに頑張れない。自分のことがわからない。」と泣いていた彼女を、僕は救いたいと思った。

こうやってレスポンスをもらえることは、本当にありがたいことだ。自己開示してよかったなと心底思う。

 

 

友人の言う通り、僕はまだ完全に自分のことを受け止められていない。最近になってようやく少しずつ自分を肯定できるようになってきたが、まだまだコンプレックスはたくさんある。人の顔色をうかがって動けない時も、自分が嫌になって家に引きこもる時もある。自分を否定して自らを傷つけてしまう時もある。自分の人と違う部分、足りない部分、劣っている部分を認められていない。「自分は自分でいていいんだ」という感覚が抜け落ちている。

 

本来、人はそれぞれ違うのが当たり前で、誰かと比べて何かが足りなかったり劣っていたりするのも当たり前だ。でも僕は、幼い頃から親や先生に怒られないように「いい子」でいなきゃいけないと思い込んできた。周りの空気を乱すくらいなら、僕なんかの意見は言わないほうがいい、僕の中に押さえ込んでいればそれで平和なんだと思っていた。違うことは、いけないことだと思っていた。そうして生きているうちに、本当の自分がわからなくなった。自分自身に違和感を抱きながらも、その違和感に向き合うことがこわくて、自分を否定し続け、周りに流され続けた。

 

 

 

僕はまだ、自分自身を形作っている途中なのだと思う。自分を受け止めきれていないから、誰かを救うことで満足しようとしているのかもしれない。

でも、今はそれでもいいのだ、と思う。20年以上生きてきてまだこの状態なのに、「自己肯定感 あげる 方法」でググって出てきた記事を読んだだけで、「自分は自分でいていいんだ!」なんて一朝一夕で自分を肯定できるようになるとも思わない。

少しずつでいいのだ。今頑張りたいことをがむしゃらに頑張って、いろんな人と会って話して考えて、いろんな景色を見て世界は広いな〜って感じて、少しずつ少しずつ強くなっていきたいと思う。そういうもんだと思う。そうしてもがき続けているうちに、ふと「あ、おれ、自分を受け止められるようになったな」って思える瞬間がやってくるのだと思いたい。その時には、それまでエネルギーを向けていた野心が完全になくなるのかもしれないし、小さくなるのかもしれない。全然別の思いが芽生えるかもしれない。でもその時には、それはそれでいいと思える自分になっている。だから、きっと大丈夫だ。

 

 

自分をすきになれない人。人と違う自分を受け入れられない人。いくつもの呪いで自分を縛り付けている人。

一緒に、もがいてみましょう。自分の弱さから目を背けず、向き合ってみましょう。

向き合い続ければ、いつか、誰もが人と違う部分を持っているのなんて当たり前なんだから、別に違ってもいいじゃん!って、どうでもよくなる日がきっとくる。自分を完全に解き放って、自由になれる日がくる。自分のことを大切にできるようになれば、きっと周りの人のことももっと大切にできるようになる。

多くの人が、自分と人との違い、人と人との違いを認めて愛せるようになれば、もっともっと生きやすい社会になる。

でも今のこの社会には、人に呪いをいとも簡単にかけてしまうような言葉や行動が、あまりにも当たり前にはびこっているから難しい。ひとつひとつ、みんなで考えていきたい。

 

 

 

僕らがかけられた呪いは、自分の手で解くことができる。僕は、そのお手伝いができる人になりたい。自分の痛みを大事にして、他人の痛みに寄り添える人になりたい。少しでも周りの大切な人たちの力になりたい。だから、せめてもの救いになれば、と、こうして発信する。僕は強くないから。人と支え合って、生きていきたい。

 

大丈夫。少しずつ、少しずつ、進んでいきましょう。

 

 

 《追記》

「違いを愛する」という意味で、とても素敵な動画に出会ったので、シェア。

この子の幸せを心から願う。


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