三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

さあ、煮込みパーティーをしよう

みなさんは中高生時代、どんな放課後を過ごしていただろうか。

 

僕は、もっぱら部活だった。バレーボールに全てを捧げていた。

バレーボールが大好きだったので、めりめりにのめり込んだ。顧問の先生に罵声を浴びせられても殴られても、バレーボールが好きで、バレーボールを通してできた仲間が好きだった。

 

大学でもサークルでバレーボールを続けた。本当に素敵なサークルだった。部活でやってきたバレーボールとは全くと言っていいほど違う楽しさを教えてもらった。

「おまえからバレーボールを取ったら何も残らんよ」と言われることもしばしばだった。それくらい、何も考えずにただただバレーボールと愉快な仲間たちとの日常を楽しんでいた。

 

 

 

そんなこんなで卒業し、僕はバレーボールから去った。そしたらどっこい、案の定、何も残らなかった。

紆余曲折あり大学院生になって、僕はカタリバに出会った。

 

(カタリ場についてはこちらの記事で言及してます)

pyonsu.hatenablog.com

 

 

 

中でも今回は、カタリバの事業のひとつである「b-lab(ビーラボ)」について話したい。

「b-lab」とは、文京区にある中高生のための余暇活動センターだ。

 

b-lab.tokyo

ハード面が非常に整っていて、勉強やスポーツ、読書、ゲーム、料理、音楽、ダンス、演劇、イベントなど、やりたいことをやりたいようにできる。

また、個性豊かでおもしろいスタッフさんも揃っていて、ソフト面まで充実していて超素敵な施設だ。ここを利用できる中高生、純粋に羨ましすぎる。

 

 

僕がはじめにb-labでボランティアをしたいと思ったのは、自分自身の経験からだった。

前述の通り、僕は中高の放課後を全てバレーボールに捧げてきた。

部活が楽しくて楽しくて、つらいと思ったことも全然なくて。

新人戦の県大会とかぶって修学旅行に行けなかったのは悲しかったし、チームメイトとのコミュニケーション不足とか自分の実力不足とかいろんな後悔はある。

だけど、あの時あの瞬間を、僕らは必死に駆け抜けた。それだけでよかった。夢中になれるものに出会えて、幸せだった。

 

 

 

でも今振り返ってみると、少しのきっかけがあれば、僕の中高時代はもっともっとおもしろくできたんじゃないかな、と思う。

 

ずっと学校という狭い世界しか知らなかった。

大学生とちゃんとしゃべったこともない、オープンキャンパスに行かなかったので大学にいったこともない、そんな状態で空虚な憧れだけを抱いて、受験勉強をした。

かっこいい大人たちを知らず、出会う機会もなく、自分の将来のことなんてわからなかった。ずっと先のことだと思っていた。

自分とちゃんと向き合わないままに、進路を決めた。そして、入った大学の授業がおもしろくなくて、逃げるようにバレーボールサークルの活動にのめり込んだ(本当に素敵なサークルで、素敵な仲間と素敵な経験ができたので、サークル活動自体に一切後悔はしていない)。

 

 

もしあのとき、近くに頑張っている大学生がいたら。

学校だけじゃない、部活だけじゃない世界があったら。

他の学校の生徒や、多種多様な大人と出会える場所があったら。

自分の好きなことを引き出してもらえたり、表現できたりする場所があったら。

自分と向き合うことの大切さ、向き合い方を知らない自分と一緒に、自分について真剣に考えてくれる誰かがいたら。

 

 

中高時代の僕の世界は、もっと広がっていたのではないだろうか。

抱えていた悩みも、自分の中だけに押さえ込まなくてよかったのではないだろうか。

人生の重大な選択も、きっと変わっていたのではないだろうか。

自信を持って、納得のできる決断を自分の力でできたのではないだろうか。

毎日の生き方が、全然違ったのではないだろうか。

 

人生を振り返ってみると、僕には「出会い」が足りなかった。

狭い狭い世界で、限られた人たちとしか接してこなかったから、必然的に視野も考えも本当に狭かった。多様な人、体験、自分と出会う機会がなさすぎた。

 

 

だから僕は、カタリバの目指す社会に共感し、活動を始めた。

(正確に言うと、もやっとしていたものが活動していく中で固まっていった。)

 

カタリ場という一度きりの出会いだけではなく、継続的な関わりにも意味があると思い、b-labにも参加した。

自分にはかつてバレーボール以外にやりたいことがなかったから、b-labでやりたい!を実現しようとしてる中高生を応援したくて、一緒にイベントを立ち上げることを活動期間の目標にした。

 

 

そんな中。いろんなことがありなかなか活動ができていない現状がもどかしくも、ちゃんとやりきりたいなと思っていたところ、こんな文章を目にした。

 

 

世の中にはその人の周りに沢山の人が集まって、話の中心になる人(通称 陽キャラ)と
あまり人が集まらなくて一人で時間を過ごすことが多い人(通称 隠キャラ)の
2つに分類されると。

陽キャラは自分がいるだけで友達の輪が自然にできて、自分がいる場所が自然に作られる。
それに対し、隠キャラは周りに人がいるわけでもないから、所属できる場所は自ら探すしかない。自分で場所を探すのは結構面倒だ。

それでも人は「所属の欲求」を満たさずにはいられない。

でももし、その所属できる「場所」自体が存在しなかったら?
居場所となりうる場所の「選択肢」がなかったら?
入りたくて仕方ない居場所が近くになかったら?

入りたくても入れません。
だからこそ「居場所」を作る。

 

 

これは、b-labで一緒にボランティアをする同期が書いたもの。

僕はずっとこの文章を読んでからもやもやしていたのだが、自分の中のもやもやが何かわからずに、しばらく放置していた。

でもちゃんと言語化したい、同じボランティアのみんなとも話して考えてみたいなと思ったので、拙いけれど、僕が思うところを言葉にしてみたいと思う。

 

 

 

まず僕は、世の中の全ての人がいわゆる「陽キャラ」と「陰キャラ」にわかれるとは思っていない。というかそもそも、人をキャラとして区別することがあまり好きではない。

 

なぜなら、誰だって「陽」も「陰」も持ち合わせていると思うから。

誰しも綺麗な部分も汚い部分もあるし、明るい時も暗い時もある。いろんな面を持っている自分を社会でどう表現するか、自分で決めて、必死で生きている。

息苦しい社会で、生き延びるために何かしらの「キャラ」を演じて使い分けているのだ。

 

 

若い頃から自然と周りに人が集まる人は、きっと何か目立つ部分があって、それがたまたま学校という社会において見えやすかった人だ。

容姿が整っていたり、足が速かったり、部活でエースだったり、勉強ができたり、ユーモアに溢れていたり、絵が上手かったり、話すのが得意だったり、力が強かったり。

 

学校では、「スポーツ」「勉強」「容姿」「声の大きさ」などが大きな評価規準になりがちなので、いわゆる「陽キャラ」と呼ばれるような人たちは、自分の中で何かに絶対的な自信を持っているのだろう。

それでも本当は、そうやって何か光るものを周りに見せていないと不安なのかもしれない。人が自然と集まることに安心しているけれど、そのつながりの希薄さに辟易しているのかもしれない。

 

一方いわゆる「陰キャラ」と呼ばれる人たちは、学校で評価規準になりやすいものに対して自信がない人が多いように思う。自信がないから規則もちゃんと守るし、目立つようなこともあまりしない。

それでも、ちゃんと好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いだし、人より少し誇れるものもある。ちょっと冒険したいときもある。このままの自分でいいと思うときもあれば、自分のことが嫌になって変わりたいと思うときもある。本当に信頼できる友達が一人いればじゅうぶんだと思っているのかもしれない。

(かくいう僕は中高時代"自称陰キャラ"だったので、こちら側とされる人たちの肩を持つ傾向にある。笑)

 

 

 

学校や教室には、いろんな人がいる。

当たり前のことだが、気づくのは難しい。だってそれは、目に見えないから。

 

家族関係が複雑な人。

大きな音が苦手な人。

貧困に苦しんでいる人。

片耳が聞こえない人。

差別地域に生まれた人。

国籍やセクシュアリティといったアイデンティティに悩んでいる人。

両親が離婚した人。

心の中で周りを見下している人。

字を読むのが苦手な人。

人を信頼できない人。

愛情を感じたことがない人。

政治や宗教に関心がある人。

周りから見たら「変」な趣味を持っている人。

きょうだいが障がいを持っている人。

いじめにあっている人。

海外で生まれ育った人。

じっとしているのが苦手な人。

他にも、人の数だけ何かしらあるだろう。

 

 

みんな何かを抱えながら、見えないように見えないように、懸命に生きている。

時には「キャラ」という鎧を身に纏って戦っている。

見えてしまったらここにはいられないんじゃないか、そんな不安を内に抱え込んで生きている。

残念なことに、今の日本において、大多数の人と違う「見えるもの」は排除の対象になってしまいやすいから。

 

 

でもきっと、「陽キャラ」も「陰キャラ」も、「いじられキャラ」も「不思議キャラ」も、「キレキャラ」も「いいこちゃんキャラ」も、「キャラ」なんかじゃない、本当の自分を持っている。

 

「キャラ」こそが本当の自分だと思い込んでいる人も、実際にこれが自分なんだと言う人もいるかもしれないが、決してある一面だけがその人の全てではないことはたしかだと思う。

 

 

 

もし自分の「キャラ」という鎧が重苦しく感じたら。

そんなもの脱ぎ捨てて、安心できる場所があったらどんなにいいだろうか。

 

別に、むりに脱がなくてもいい。脱ぎたくなったときに、脱げばいい。

気づかないうちに鎧を纏っていること、それは自分次第でいつだって脱ぐことができるということを知るきっかけがあればいい。きっかけがあれば、人は驚くほど簡単に、その鎧を脱ぎ捨てることができる。

 

 

 

光があれば影があるのと同じように、誰にだって「陽」も「陰」もある。

そのことを僕は忘れないでいたいと思うし、顕在化している部分だけで人を判断したくないなと思っている。

 

 

まずは自分自身が、自分の中の光るもの、あったかいものを大事にしてほしい。

一方で、暗いもの、もやもやしたものも同じくらい大事にしてほしい。

でも、自分の中にあるものに自分一人で気づくことは難しいから。ちょっと息苦しいな、しんどいな、誰かと話したいな、自分を素直に表現したいな、身体を動かしたいな、そんなふうに少しでも思った中高生は、ぜひb-labにきてほしい。

 

 

ここに来れば、存在そのものを受け止めてくれる大人がいる。

少し先を歩きながら、今を懸命に生きる大学生が待っている。

同じ悩みを抱えた、やりたいことを持った同世代の仲間が、きっといる。

そんな出会いを通して、自分もまだ知らない、新しい自分に出会える。 

 

 

 

いつきてもいいし、いつ帰ってもいい。

何をしてもいいし、しなくてもいい。

失敗も評価もないんだから、思いっきり弾けていい。

学校では息苦しくても、キャラを演じることに疲れたとしても、たしかにここにくれば、本当の自分で誰かとつながっていられる。

自分の「生」を肯定してくれるような、根源的な安心感が溢れている。

 

 

綺麗事かもしれないけれど、僕は、b-labにはそんな可能性があると本当に思っている。

誰もが、自分が纏った鎧を脱いで、安心できる場所。

多様な「他者」と、「自分」に出会える場所。

 

そんな場所であったらいいなと思う。

そういう場所が、僕にとっての「居場所」なのかもしれないな、と、言葉にしてみて思った。

 

 

 

 

***

 

 

 

最後に、前述の引用文を発信してくれたボランティアの同期に感謝したい。

あの問いかけに対するもやもやがなければ、僕はきっとここまで考えていなかった。

キックオフで決めた「イベントをする」という目標は、ある程度「ここで何かできるぞ」という安心感を持った中高生たちとの関わりを前提としていたが、こうやって考え直してみれば、僕はb-labに来てまだ初期段階の人たちとの関わりをもっと大事にしたいと思っていたことに気がついた。

 

 

自分がどういう関わり方をするか、どんなふうに「居場所」を捉えるか、正解はない。

だからこそ、せっかく同じ時期に同じ場所に集まった同志なのだから、みんな自身の、人生の料理を持ち寄ってパーティーがしたい。

 

「これおいしいね!」

「どうしてこれ作ったの?」

「これ私の口には合わないな、なんでかな」

「もっとあれ入れればおいしくなるんじゃない?」

「おれああいうの作ってみたいんだけど、どうかな」

 

それぞれの中でじっくりことこと煮込んだものをパーティーみたいに出し合って、一緒に考えてみたい。

 

別に煮込み切れていなくてもいい。生のままでもいいし、材料だけでもいい。なんなら煮込み料理じゃなくたって、なんでもいい。

 

僕はうるさいだけの立食パーティーはあまり得意じゃないけど。

持ち寄った料理には、その人自身が表れるからおもしろい。

 

誰かの材料が、誰かの料理のきっかけになるかもしれない。

誰かのレシピが、誰かのレシピをもっと輝かせるかもしれない。

誰かの料理が、誰かの気づきや幸せのきっかけになるかもしれない。

(この例え伝わってます、、?笑)

 

そんな感じで、最後まで楽しくやっていけたら嬉しいなあ。

 

 

これからもどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

※b-labにかかわらず、僕と煮込みパーティーしてくれる方どしどし募集してます🙆‍♂️🍲