あなたは、はたからみればアホみたいな話について、大真面目に、真剣に、なおかつ爆笑しながら議論したことがあるだろうか。
今回は、前回の記事に登場した僕の友人である、給料の9割をエロにつぎ込む性欲権化男と、元カレにゾッコンすぎて恋の仕方がわからなくなった恋愛盲目女の超白熱議論バトルをお届けするとともに、今回話題にあがった「性」について考えてみたい。
果たして性行為は、本能なのか。人間は、快楽を求めて彷徨い続けるのか。性は、目を逸らさなければならない汚いコンテンツなのか。はたまた、神聖なるものなのか。
人間の性は、どこへ向かうのだろうか。
(前回の記事)
※ここから先は、多少の下ネタを含みます。下ネタが苦手な方は、点線〜点線部分をすっと飛ばしてお読みください。
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「今の彼氏に口内射精されることが嫌すぎたけど、強要されて断れなかった。あんな汚物を人の口に発射するなんて、う◯こを人の口にむりやり入れるのと同じや。」
恋愛盲目女が、突然彼氏への鬱憤を吐き出すとともに”精子=う◯こ説”を唱え始めたことで、戦いの火蓋が切って落とされた。
「いやいや、精子は、ち◯こをしごいてしごいてやっと出るものやん。う◯こは腸から出るものやけん違う。」
対して性欲権化男はわけのわからない反論をする。
「いやう◯こだって同じやろ。うううううって踏ん張ってぷりってやっと出るものやん。おまえにとって精子なんておし◯こやう◯こ並みに出るものやろ。」
恋愛盲目女が性欲権化男のアイデンティティーもろとも攻撃し、論破しにかかる。強し。
「いやう◯こはいろいろ消化されて腸から出てくるけん汚いし臭いんよ。でもキ◯タマは普段使われてないけん、精子はきれいなんよ。」
さすが性欲権化男。彼の中では、精子は聖水と同等の意味を持つらしい。
「いや精子だって臭いやん。」
恋愛盲目女、ごもっともである。
「精子は子作りのためのものやけん、神聖なんよ。」と性欲権化男。
「出た出た出ました、そんなこと言うけど、ただただ臭い。汚物。」 と恋愛盲目女。
二人の議論が平行線を辿り始めたところに、近頃インポ気味の僕がようやく切り込む。
「仮に精子が子どもを作るための神聖なものなんやったら、それを口に出すことはどういう意味があるん?」
鋭い。我ながら、子どもが「赤ちゃんはどこからくるの?」ときらきらした目で親に聞く時くらいぴゅあぴゅあエンジェルな問いを投げかけている。
恋愛盲目女は、ほれきたとばかりに「そうやそうや!中に出せばいいだけの話やろうが!!」と性欲権化男を煽る。
「いやいや、それは口に出すか中に出すかの話であって、精子=う◯こは違うって言っとるんよ!」
完全に押されている性欲権化男には、すでに反論の余地がない模様。
ここでついに、恋愛盲目女の怒りが沸点に到達。
「口に出すのは完全に男側の快楽であって、こちとら男の性処理肉便器じゃないったい!カスが!!だいたい男はね、生理の痛みも知らん、出産の痛みも知らん。ただ快楽のために口にでも中にでもどこにでも出して、それでこどもできたね〜いぇーいって、ふざけすぎやろうが。そのくせして妊娠しとる時に浮気するやつとかおるやん。もうカス。クズ。ゴミ。消えたほうがいい。」
もはや全女性を代表して男性への思いの丈をぶちまける恋愛盲目女。溜まった不満をここ魚民にて爆発させるその姿から、ダイバーシティやジェンダーイクオリティーが盛んに叫ばれるこの時代においても、やはり男と女が歩み寄ることなどできないのではないかと思わされる。いや、そんなことはないと思いたい。
そんな恋愛盲目女を前にし、性欲権化男はがくりとうなだれ降伏宣言をした。
「だっておれ、肉便器系のAVすきっちゃもん、、、」
文面で書くと博多弁のかわいさに惑わされてしまうかもしれないが、騙されないでほしい。彼はただ、しょぼくれた顔でご自分の性癖を暴露しただけである。みっともないにもほどがある。一周回って愛おしいわ、ばか。
こうして議論は恋愛盲目女の圧勝により幕を閉じ、彼女の「精子=う◯こ説」が立証された。
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僕らが生きるこの世界は、僕らが生まれる前から長い時間をかけて作られてきた常識や規範といったものに溢れている。「性」にまつわることも、もちろんそうだ。
男の子にはロボット、ミニカー、変身ベルト。
女の子にはお人形、おままごと、ピンクのお洋服。
男は力強くたくましくいるべき。なよなよめそめそしてはいけない。
女は優しく美しくいるべき。汚い言動は慎まなければいけない。
デートの時は、男がお金を払うべき。女はかわいく着飾るべき。
男はしっかり働いて家族を養うべき。
女は子供のそばにいて家庭を守るべき。
性行為の際は、男がリードするべき。女は演技をするべき。
ちょっと考えただけでも、これだけ我々が縛られている「性」を取り巻く「こうするべき」をあげることができる。これらは、ジェンダーの授業等でよく扱われるものだ。
「私は縛られているわけではなく、そうすることを自分で選んでいるんだ」という人もいるかもしれないが、多くの人はきっと、幼少期から育っていく過程で知らぬ間に規範を植えつけられてしまう。
普段僕は公園や学童といった場所でバイトをしながら、子どもたちの遊びや生活に関わっている。
そこでは、子どもたちがいかに家族や先生、マスメディアといった周囲の影響を受け、さらに子どもたち同士で影響を与え合っているかがよくわかる。
「その遊びは女っぽいからきもい」「女は弱いからバスケには入れない」「男はすぐに怒り出すから嫌い」といった発言は、きっと子どもたちが心からそう思って言っているわけではない。
その子の背景や、置かれた環境や状況があって形作られているもので、その裏には、本当に思っていること、伝えたいことがあるはずなのに。
ジェンダーに限らず、他にも、「年上が偉いんだから従え」「運動ができないやつはダサい」「ガリ勉はきもい」といった声は本当によく聞こえてくる。
子どもたち同士でお互いを締め付けあい、その呪縛をより強固なものにしてしまっている。
そんな声が聞こえてくるたびに、「違うんだよ、そうじゃないんだよ、君たちは知らないうちに縛られているんだよ」と言いたくなる。
けれど、言葉だけでまっすぐ真正面から伝えたところで届かないこともわかっているから、ただただ悲しくなる。縛られたその心にどう届けるかを、僕は考えなければいけない。
こういったものに縛り付けられたままでは、みんながみんな生きづらいのではないか。2018年のジェンダーギャップ指数で日本は149ヵ国中110位だったけれど、この数字が示していることは、女性も男性もマジョリティーもマイノリティーも含めた「みんなの生きづらさ」なんじゃないかな。
普段当たり前に思っているもの、自分を形作ってきたものを、これはほんとに正しいのかな、ほんとは自分はどうしたいのかな、自分は誰かを知らぬ間に傷つけていないかな、って絶えず問い直して自分をアップデートしていくことが大切なんです、きっと。
僕らが今生きているこの世界の当たり前は、僕ら自身で作るべき。それは勇気のいることだけど、必要なことだと思う。
一方で、少しずつ世界が変わってきていることも感じる。共働きの家庭は当たり前になった。「草食男子」という言葉が一時期流行ったが、もはやそのカテゴリーも一般化した。
子どもの世界も同じだ。男の子のプリキュアが誕生したり。機関車トーマスの主要キャラクターの男女バランスが一緒になったり。
こういったものを僕らは「変化」として捉える一方、子どもたちはこれをアニメやおもちゃを通して「当たり前」としてダイレクトに受け取っていく。
もし今の子どもたちや若い世代がこの変化を「当たり前」のこととしたまま育っていくと、未来は今と全く違うものになっているのかもしれないと思わされる。
前回、僕たちが縛られている呪いを解きたいよね、という記事を書いた。その記事ついて、大学の知人が言及してくれた。
ことばとしては、言ってしまえばありきたりで、世で手垢のつきすぎた表現ではあるのです。本で見たら「あーそれねー、ほんとそうよねーハイハイ」ってついついさらっと読み過ごしてしまいそうな。
でも、それが顔も声も知っている知人の言葉になったとたん、急にそれが色をもって、意味をもって、沁みてくるから不思議なものです。 実感が湧く?説得力が出る?身近になる?うーん、言い方が難しいのですけど。
とにかく、一滴、しみいったのです。最近のガサガサ荒み気味だった私に。
1月5日 自分に甘く? - かっぱちゃんの耳
自分の言葉が誰かに届く嬉しさと、その責任の重さを強く感じた。
僕の言いたいことは、あらゆる本や歌で叫ばれていて。
考えてみると当然で、人類が誕生してから今日までの歴史の中で、誰も言っていないことを言うことなど、僕には到底できない。
でも、それでも、自分の中から湧き上がる言葉を紡ぐことで、自分の周りの誰かに届くかもしれない、ということがきっと大事なんだ。
僕は感覚過敏ではないので、かっぱちゃんの感じている苦しみは、正直言ってわからない。
耳も聞こえるし目も見えるし声も出るし、そうではない人の苦しみはわからない。
僕は男性なので、恋愛盲目女が言うように、生理や出産の痛みもわからない。
僕は大学にも行かせてもらって一人暮らしもさせてもらっているくらいには裕福な家庭に生まれたので、その日の暮らしが苦しいような家庭の人や大学に行きたかったけど働くしかなかった人の気持ちはわからない。
僕には両親がいて兄弟がいるので、親がいない人や一人っ子の人の気持ちはわからない。
僕は(もののけ姫の)シシ神やチュートリアル徳井に似ていると言われたことはあるけど、「ブス」と罵られたことはあまりない。だから、容姿で悩んでいる人の苦しみはわからない。「顔が、体型が醜いから死にたい」と悲しみのどん底にいる人に、なんて声をかければいいかわからない。
人生は顔が全てじゃないよ、ちゃんと君自身をみてくれる人がこの世界にはいるんだよ、そんな言葉も、薄っぺらく聞こえてしまう。
一方、僕は背が低いうえに足が短くて太くて毛深くてO脚なので、スタイルのいい人が羨ましいなと思う。このコンプレックスを「短足で この世のズボンが 似合わない」というド直球な川柳にしてラジオに応募したところ、3万円が当たった時は少し自分を受け止められたけど、やっぱりつらいものはつらい。僕はバレーボールをしていたので、身長があればと何度思ったことかわからない。
僕は小さい頃から自分の意見を抑え込んで、考えないようにその場しのぎで生きてきたので、自分の頭で考えて自分の言葉で発言することが苦手だ。話したいのに話せない気持ちはよくわかる。言葉がするすると出てくる人をみると、ああ自分はだめだなあと思う。
こうして書いてみるとちっぽけに見えるかもしれないけれど、それはあなたにとって「わからない」からちっぽけに見えるのであって。その人にとってはとてつもなく大きな苦しみなのかもしれない。
こんなふうに、同じような苦しみを持つ人となら、少しばかりその苦しみをわかち合える。それでも、生きてきた世界や境遇が違うのだし、他にも違う苦しみが複雑に絡み合っているのかもしれないし、他人を100%完璧に理解することはできないのだろう。
例えある苦しみでどんなに傷ついていたとしても、他の人間の傷に気づけない人だっているのだ。
この世界は、「わからない」ことだらけだ。自分以外の人間のことなんて、ほとんどわからない。でも僕は、それで終わらせたくない。
「わからない」ものを「わからない」ままにすることは気楽で簡単だけれど、「わからない」からこそ、「わかろう」とする姿勢を大切にしたい。最終的にわからなくたっていいんだ。知って、考えて、思いを馳せて。
「わからない」部分を想像すること、それが優しさなんだと、僕は教えてもらうことができたから。
言葉にするのは簡単だけど、わかろうとするのってやっぱり難しくて。
ある苦しみについて、ぐるぐると一人で考えたり誰かと真剣に話し合うことは、もちろん大事。だって実際に苦しんでいる人がいるんだから。痛くてつらくて、命を絶ってしまう人もいるわけだから。
何かの苦しみを背負う人にとって、その苦しみについて、もっと気軽に話そうよ!なんてあまりにも無責任すぎる言葉に聞こえるかもしれない。
でもその苦しみを持たない人は、その苦しさがわからないわけだから。
まずは知って、気づいて考えるためのきっかけを作りたい。「わからない」のハードルを下げたい。
上の議論のように一見ばかげたことをおもしろおかしく大真面目に語り合ったり、笑いやユーモアを交えたり。
この時僕は彼らの議論を動画におさめながら笑いが止まらず大変だった。二人も大激論しながらも楽しそうにしていた。決して胸ぐらを掴んで殴り合っていたわけではない。
この会話の中で「女性の苦しみは男性にはわからない」「性行為においてお互いの合意がいかに大事であるか」ということを、「精子=う◯こ説」とともに強く訴えた恋愛盲目女の魂の叫びは、一人の性欲権化男の心にずしりと響いたのではないだろうか。
自分がとらわれていたことに、すーっと気がつくきっかけになったのではないだろうか。というかリアルに響いていてほしい。響けばか。
ひょっとしたらそんな「笑い」や「遊び」からのアプローチが、なんとなく重たい僕らの体を軽くしてくれて、「わからない」から「わかろう」への階段をふわりと昇れたりするのではないだろうか。それが僕たちの呪いを驚くほどすっと溶かしてくれるようなことも、あるのではないだろうか。
そのような方向性で活動するのが、「世の中とLGBTのグッとくる接点をもっと」がコンセプトの、やる気あり美というグループだ。
僕は教育の大学院で「遊び」について勉強しているので、「人の心をつなぐのって結局エンタメだよね」というこのグループの姿勢にとてつもなく共感している。そのうえ僕が4年間所属していたバレーボールサークルの創設者の方が代表をされているときたら、応援しないわけがない。
純粋にめちゃめちゃおもしろい企画や動画を作って発信しているので、全人類にみてほしい。悩んでる人にも、教育を学んでいる学生にも、現役の先生にも、親御さんにも、「わかろう」としてる人にも、全然「わかろう」としていない人にも、エンターテイメントとして最高におもしろいので、なんでもいいからとりあえずみてほしい。
カミングアウトされる愛しのノンケたち《キャプテン編》:やる気あり美
特に、「カミングアウトされる愛しのノンケたち」シリーズは愛おしさ全開で超おすすめなので全力で全シリーズみてほしい。こんなふうに愛溢れる関わりができる人でいたい。
僕の大好きなせやろがいおじさんもコンセプトとしては同じ路線だと勝手に思っている。ふんどしと沖縄の海と遊び心によって、大切な問題がすっと心に届く。
僕のことをチビやら短足やら言ってきたやつらは全員これをみやがれ!!
体の事いじって笑い取ろうとする奴に一言【せやろがいおじさん】
というわけで、今回は「性」にまつわる問題をテーマにしてきた。
しかしこれに限らず、たくさんの偏見や差別や思い込みは「わからない」ことから生まれているのではないか。
僕は、いろんな痛みを「わかろう」とする社会のために何かできる人になりたい。
人間誰しも違うんだから、お互いの違いを認めて、「わからない」からこそ「わかろう」をおもしろがって、みんなまるっと愛していきましょうよ、という歩み方が僕にはあっている気がする。
「わからない」が溢れるこの社会において、我々がいかにして、それぞれの生きにくさを「わかろう」とし合える社会を作っていけるか。
性欲権化男と恋愛盲目女の議論は、この壮大な問いを僕たちに投げかけてくれたように思う。
いろんな考え方があるからこそ、みんなで、考えていきたいね。