三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

英語合宿に参加してきたんだぜ

10月に突入した。同時に夏休みが終わり、大学院の授業がスタートした。

来年の夏から留学にいきたいと思っている。そのためには、学内の交換留学制度の選考をクリアしなければならない。

加えて、当然だが、最低限の英語力が必要とされる。

 

私はまだまだ未熟な英語力をアップさせるため、所属大学の英語科の学生たちが主催する英語合宿に参加してきた。

この英語合宿は、7日間宿舎にこもり、スピーチやディスカッション、ディベート、ゲームなどの様々なセッションを参加者とともにこなしていくものだ。もちろん日本語は禁止。

私は授業の関係で、4日目の夜から参加した。英語専攻ではない私にとって、そこは完全アウェーの世界。ばちばちに緊張しながら宿舎に足を踏み入れ、4日間の英語漬け生活をスタートし、あっという間に終わっていった。

そこで感じたことを、整理していきたい。

 

 

1.自分に足りない「考える力」

5日目には、合宿の中でもっとも大きなセッションである「ディベート」が行われた。

今回のテーマは、「日本において、動物実験は廃止すべきか」。

私は、英語はおろか日本ですらディベートをしたことがなく、これが初めての経験だった。しかし、毎回の英語合宿に参加している人にとって、英語ディベートは慣れたもので、私は終始たじろいでいた。

結局、私はもっとも簡単な役割である「オープンステートメント」を自ら選択し、事前に作り上げた(アシスタントティーチャーにほぼ全て教えてもらいながら)スクリプトを練習し、読み上げる形で終了した。

他の役割は、相手の反論に応じてその場でこちら側の反論を組み立てて言い返す必要があるため、到底私にはできないものだったが、他の参加者は堂々と主張を述べており、ただただ感服するしかなかった。

 

このディベートの本番の主張しかり、準備段階での議論の組み立て(事前に配られた、複数の事実が書かれた資料をもとにチームで意見を出し合いながら主張を整理する)しかり、私はほとんど意見することができなかった。

それは、周りより「英語が苦手だから」という理由ではない。もちろん、それもそうなのだが。

 

もっと大きな理由は、「そもそも考える力が圧倒的に足りないから」だった。

 

これとこれは相反するものだ、これはこの事実を強調できるものだ、こう言われたらこの事実で対抗しよう、といった具合に、たくさんの事実があふれている資料の中から主張したいことを論理的に組み立てていく作業に、私は本当についていけなかった。

 

最近の私は、「英語でもっと多くの人と話せるようになりたい」「英語で仕事がしたい」「海外で暮らしたい」とただ漠然と思っていた。

しかしその前提には、「自分の考えをわかりやすく相手に伝えること」や、「相手の考えを受け入れ、根拠を交えて適切に反論すること」など、根本的な思考力やコミュニケーション力が必要とされていた。

つまり、物事を考え、伝えるツールとして「言語」があるわけで、そもそも母語で考え、伝える力がなければ、当然英語でそれらはできないということだ。

日本語を母語とする私にとって、これは致命的だ。英語が話せないということ以上にはんぱじゃない焦りが押し寄せた。

 

英語を話せるようになることがゴールではないことを認識できた、とてもいい機会だった。

 

 

 

 

2.コミュニケーションがこわいのではなく、自分の考えを人に話すのがこわい

これは1に立脚していると思うのだが、そもそも私は自分に考える力が足りておらず、薄っぺらいことしか言えないというコンプレックスがある。つまり、相手の方がある物事に対して多面的に、深く考えているにもかかわらず、自分なんかのペラペラな意見を言うことなど甚だおこがましいと思ってしまう。

だから、人と意見を交換することが、こわい。

 

この英語合宿は、参加者の大多数は英語専攻だ。同じ学科の人やリピーターも多いため、私は圧倒的にアウェーだった。人見知りな私は、最初から内輪的な空気の出来上がった空間に飛び込むことは大変ハードルが高かった。

幸い、参加者がみんな優しく、自分に興味を持ってくれる人たちだったので、とても助けられ、気持ちよく過ごすことができた。しかしやはり、飲み会やフリーの場面で、仲睦まじい輪の中に自ら割り込んでいく勇気は今の私にはなかった。

 

こういった環境で、私が何者であるか、なぜこの合宿に参加したのか、なぜ他専攻で英語に興味を持ったのか、将来どうしたいのか、といったことを聞かれまくるのはなんら不思議ではない。私は、「私自身」を説明することが苦手だということを、とことん思い知らされた。

参加者の多くは、英語教育を専攻しており、子どもたちに英語を教えたい、そのために自分の英語を上達させたいという明確な目標を持っていた。私が話した限りでは、その目標の裏にある理由や熱意を、しっかりと言葉にできる人ばかりだった。そういった人たちは、その目標に基づいてこの合宿に参加しているだろうし、留学や他の活動も行っているだろう。

一方私は、漠然と英語を上達させたいという思い半分、興味本位半分で合宿に参加したため、はっきりと自分の思いを言葉にすることができなかった。

 

何事も、自分の興味関心に基づいて行動してみることは、悪いことではないと思う。そうすることで新しく見えてくるものや広がるものがあるだろう。

しかし、今までの自分はそれだけで終わってきたように思う。行動して感じたことや経験したことを噛み砕いて飲み込んで、自分のものにしてこなかった。誰かの言葉をそのまま使って、自分の言葉で表現してこなかった。だから、自分に自信がない。自分の思いを人に話し、この程度の考えなのか、と思われるのがこわい。

そうだ、自分のこの焦りは、年齢によるものが大きいかもしれない。

もう自分は、若くない。周りの同級生はすでに社会に出て働いている。社会に貢献している。なのに、自分はまだこんなところでもがいている。

 

こうして考えていることは、何に基づいているのか。なぜそう感じたのか。それをきちんと言葉にしていくことで、自分はこうしたいんだ、こうなりたいんだというのが見えてくるのかもしれない。

 

例えるなら、今の自分は、根も短く幹も細い虚弱な木であるにもかかわらず、枝を広げ葉を増やそうともがいている感じだ。

もっとしっかりと地に根を張り、力強い幹で自分を支えなければ。

 

 

3.英語と日本語の持つ性格の違い

英語合宿の最終日、一人ずつ参加者に向けて最後のスピーチをし、カウントダウンとともに日本語の世界に戻ってきた。そして、英語で出会った参加者と、日本語で帰りのバスに乗り込んだ。

このような不思議な感覚は初めてだった。だって、それまで英語で話していた人たちが、急に敬語で話してくるのだから。名前にもさんをつけられ、年齢が急に大きな優先順位として浮上してくるこの感じ。

もちろん、英語にも丁寧な表現はあるし、ネイティブは目上の人に対して使う言葉やスラングなど場面や人によって使い分けているだろう。

我々も丁寧な表現のうちの少しは知っていて、使ってはいるものの、そこに心からの「敬意」を持って使っているかと言えば微妙なところだ。そういう表現だから今はこれを使わなきゃ、という感じがする。

一方母語である日本語では、小学生の頃から、大人には丁寧語を使うことや、中学生になれば先輩には敬語を使うことを学ぶ。そのうち無意識に、「年齢」という尺度で見えない壁を作ってしまうようになる。

今回日本語の世界に戻ってきたとき、突然その壁が目の前に出現したような感じだった。この壁が、ある種自分を生きやすくも、生きづらくもしているのかもしれない。同世代には安心感を抱きやすいし、後輩には愛着を持ちやすいし、先輩には甘えられる。この日本語の持つ性格が、部活動での厳しい上下関係や、年功序列の賃金制度などを作り上げてきたのかもしれない。そのぶんフラットに感じる英語の世界では、年齢という尺度が薄い分、より人間としての能力や深みが重要視される気がした。

 

なんだか言いたいことがわからなくなってきたが、敬語が作り出す日本語の世界を批判しているわけではなく、それぞれの言語の世界にいろんな側面があるよね、という話。

 

 

4.人の心を動かすもの

これは、英語とはあまり関係のない話なのだが、この英語合宿の最後に私は心にじーんとくるものを感じ、ほろりと涙しそうになった。

運営をしていたのは、大学の英語科の有志たち(通称アシスタントティーチャー:TA)で、彼らはこの夏休みをほぼ丸々費やして準備を進めてきた。セッションの内容を詰めたり、モデレートの練習をしたり、さぞかし大変だったことだろう。合宿中も彼らはあわただしく駆け回り私たちを全力でサポートしてくれた。一番しんどいのは彼らだったはずなのに、疲れている姿など一切見せずに、いつも笑顔で親切に参加者を楽しませてくれた。

最後に日本語の世界に戻る直前、参加者からお礼の手紙をプレゼントした。これは毎回の恒例らしいが、そこには間違いなく、愛が存在していた。この合宿にかけてきたTAたちの思いや達成感、安堵、プレッシャーからの解放、いろんなものが涙となって溢れ出していた。そこに日本語とか英語とか、そんなものは関係なかった。何かに一生懸命取り組んだとき、人のために行動したことで感謝されたとき、仲間との絆を心から感じたとき。人の心が動く瞬間というのは、こんなに素敵だったんだと思い出した。それはかつて、自分がすべてを懸けてバレーボールに取り組んでいたあのときの感情と似ていた。

ああ、自分もこんな涙をまた流したいな、この感情を死ぬまで忘れたくないなと思った。

 

 

 

 

今の気持ちをぐちゃぐちゃと書き出したのでまったくもってまとまっていないが、自分にとってこの4日間は本当に意味のあるものになった。いや、もっと意味のあるものにしていくのは、これからの自分だ。

英語が話せる自分になるのではなく、自分が誇れる自分になろう。