「ゆとり世代」と言われる人たちは、おそらくこの名を聞いてピンとくるだろう。
"mobile space"
そう、それは、ぼくらの高校時代に流行した、ホームページが簡単に作れるサイトだ。
このホームページでは、日記やアルバム、リンクなどを好きなようにカスタマイズし、自由に表現できるのだ。
そして、その中でも一際思い出深いのが、「リアル」という機能だ。
「リアル」とは、言ってしまえば一昔前のツイッター。(ここからは、"現実"を"Real"、ウェブ上のものを"リアル"とする)
しかしツイッターと決定的に違うのは、そこに自分のつぶやきと、それに対する読者のコメントしかないという点だ。
他人のつぶやきが流れてくるタイムラインは存在せず、それを閲覧するには他人のリアルを訪れなければならない。
ただただ、自分が書きたいことを、書く。それを、知っている人たちが、みる。なんと平和的世界。。。
周りに流されて流されて生きていたぼくは、もちろん、リアルをやっていた。
当時の仲良し組で結集し、グループを立ち上げたのだ。かわいいかよ。
ぼくはふと思い立ち、数年ぶりに高校時代のリアルを全て読み返してみた。
そこに広がっていた、等身大のぼくの"Real"を書き連ねていきたい。
①若気の至りがち
シンプルに、若い。
だって、初投稿の言葉が「ぼく、まだ15歳。」ですよ???信じられます?????何年前やねん???なんやその若さにあぐらをかいた感じ??
ただ、若いからこそ、とてもエネルギッシュだったなと。朝から夕方まで毎日毎日授業を受け、部活をし、恋愛もし、趣味もあり。こう書いてしまうと大学生も社会人も変わらんぞと思うが、高校生というのは多感な時期。精神的にも肉体的にも変化が大きく、受験の重圧もある。学校の人間関係も命がけ。そのひとつひとつが、必死で、不器用。でも、なんだってできると思っちゃう。
だから定期考査前は決まって徹夜しちゃうし、勉強や部活でいい成績をおさめれば自慢だってしたい。恋人だってほしいし、おもしろいやつだって思われたい。ちょっと目立ったこともしてみたい。
そのひとつひとつが、リアルには残されていた。
振り返ってこそ、「若気の至り」なんて言えてしまうが、当時を生きるぼくにとっては、至ってなんぼの若気なり。自分を表現するのに、必死だったのだ。
②歌詞をつぶやきがち
当時の高校生の間で、ロックバンドといえば、バンプとラッド。ちょっとイカしてるやつは、エルレ。
ぼくはそのどれも全くもって存じ上げていなかったが、部活仲間とカラオケに行っているうちに、ザ・高校生に染まっていった。
そしてついにリアルで、ラッドの歌詞をつぶやいた。
誰も端っこで泣かないようにと、君は地球を丸くしたんだろ?
くううううううううううう!熱い!熱いねえ洋次郎さん!「地球は丸い」という今や誰もが知っている事実をこんなにもかっこよく表現するなんて、そりゃあ高校生の心をつかみますわ。
しかもこのただの歌詞のつぶやきに対して、続きの歌詞を友達がコメントするあたり、熱いねえ、、、
好きなものを共有することで、つながっていられる感覚がほしかったのかな。
誰かが好きなものを好きになるって、いいことだよね。とりあえずラッドとバンプ歌えればカラオケで盛り上がられるみたいなね。それがぼくらのステータスだったんです。
でも、逆にこの当時からサカナクションとかフジファブリックとか好きだったやつは、すげえかっこよく見えたんだよなあ。自分持ってる感じがして。
そう、ぼくはとにかく「自分」の芯がなかった。だから、強く個性が光る人に憧れながらも、みんなが好きなものを好きでいたかった。リアルで歌詞をつぶやいて、「ぼくはラッド知ってますよ、好きですよ、誰かカラオケ誘ってよ」っていう裏メッセージを飛ばしていたんですね。実際にそれでクラスメイトとカラオケ行って他のクラスの人と仲良くなったこともあったし。
イカしてる歌詞をただ伝え合うというその痛々しさに、全身が謎のかゆみに襲われてきた。でもその痛々しさこそが、ぼくらの"Real"だったんだよなあ。
③「陽」と「陰」
高校というイッツァスモールワールドでは、いわゆる人気者で目立つ存在である「陽キャラ」と、地味で目立たない「陰キャラ」に大きく分類されていた。それは明確に分けられていたわけではなかったが、その人がどっちの人なのかは、外目でだいたい見分けることができた。
例えば陽キャラの特徴として、
「Yシャツの下に色物のシャツを着ている」
「ワックスで髪を整えている」
「リュックがThe North Face」
「学ランの第一ボタンを開けている」
「靴がハイカット」
「イベントの際はお団子頭になる」
など。
反対に陰キャラは、
「Yシャツの下は絶対に白シャツ」
「寝癖が立っている」
「かばんはエナメルのスポーツバッグ」
「学ランは一番上まで締める」
「靴は無地のランニングシューズ」
といった感じ。
ぼくらの高校は進学校で、校則はあったが、とてもゆるかった。そのため陽キャラは、校則の中で自分を表現することを楽しみ、陰キャラは誠実に規則を守り抜いていた。
かくいうぼくは、もちろん「陰キャラ」だった。シャツの下はいつも白で、靴は黒のアディダスのランシューで、かばんは黒のナイキのスポーツバッグだった。学ランは上まで締まっていないと落ち着かなかった。本当は、陽キャラのように少しやんちゃをしたかった。でも、そんな勇気はぼくにはなかった。
しかし、リアルの中のぼくは、はっちゃけていた。実際の高校生活で目立てないからこそ、リアルでは目立ちたかった。だから、リアル上で「陰キャラ」を名乗った。それが自虐的な意味で「おもしろい」と思っていたからだ。コミュニケーションが苦手で、クラス替えのあとなんかは本当に友達がいなかった。でも、本当の自分は、地味で暗くておもしろくないやつなんかじゃないんだぞ!というのを、リアルを使って発信していた。それがきっかけで話しかけてもらえたり、交流が広がったりした。
といっても、これは"自称"陰キャラに近かったかもしれない。なぜなら、自分が「陰キャラ」に属していると本当に思っている人は、自分を「陰キャラ」と名乗ったりはしないだろう。ぼくは心の底で、「ぼくは陰キャラではない」「陰キャラにはなりたくない」と思っていた。無意識のうちに、学校の中で目立たない人たちを下に見ていたのかもしれない。
なんと最低なやつだ。
でもそれが、ぼくの戦い方だった。高校でうまく生きていくためには、いい人間関係を作れるようなんとかもがくしかなかった。
大学受験のため地元を出たぼくが、受験会場で一番にしたこと。
「第一ボタンを開ける」
ぼくの戦いからの解放が、リアルにははっきりと記されていた。
なんというか、普通に、ダサい。
④「高校」という狭くて濃いコミュニティ
高校は、中学受験を経てだいたい同じくらいの学力を持った生徒が集まっている。そのため、ぼくにとっては中学よりとても居心地がよかった。
勉強の面で強烈な劣等感を味わい続けたが、気の合う友達もいたし部活も一生懸命取り組んだし、イベントも楽しんだ。
それゆえ、その狭くて濃いコミュニティの中で、ぼくは調子に乗ってしまっていた。
ぼくの高校のホームページ界には、おもしろいブログやリアルを書くイケてる人が数人いて、ぼくはその人たちをリスペクトしていた。その人たちは、いわゆる③の「陽キャラ」のような見た目というわけではなかったのだが、彼らの言葉には知的センスやギャグセンスが溢れに溢れていて本当にかっこよかった。見た目ではない、確固たる個性が光っていた。
ぼくは彼らに憧れを抱き、「ぼくもあんなおもしろい文章を書きたい!」というモチベーションでホームページを続けていた。その成果もあり、ぼくのブログやリアルはわりかしよい評判をいただけるようになった。ブログがきっかけで彼女ができたりもした。ぼくは、「自分は人を楽しませる文章が書ける!」と思い込んだまま高校を卒業し、なんとその勘違い野郎のまま大学も卒業した。
しかしその後、文章を書くのが本当にうまい人たちとの出会いを通じ、ぼくの思い上がりがついに発覚した。
ではなぜぼくの文章が一定の人気を得ていたのか。
読み返してみると、ぼくの文章は、日常に起きた出来事や、そのときの感情をおもしろおかしく表現することを中心としていた。つまり、そこに「ぼく自身」が生み出したアイデアや考えはない。その「おもしろおかしく表現する」技術というのは、すぐに真似できる。おもしろいなと思う人の文章のテンションや文体、語尾などをパクればいいのだから。
反対に、ぼくが憧れていた人気ブロガーやその後出会った人たちは、文章自体のおもしろさで勝負していた。自分の頭で考え、自分の言葉で表現していた。
ぼくの文章は、所詮上っ面だけのぺらぺらなものだった。
何が言いたいかというと、ぼくはこのリアルを、「高校の人たちに見せる」ために書いていた。なぜならそこを訪れるのは同じ高校の人だけであり、ツイッターのように不特定多数の人に見られるわけではない。その狭いコミュニティの人たちにウケそうな内輪ネタを、ちょっと変なテンションで書いていただけだった。
まあそのためのものだったからいいじゃん、とも思うが、その狭さでウケていた自分の文章を過信し、調子に乗り続けてしまったことに、とても反省している。
遅かったが、外の世界を知れてよかったし、「誰に向けて書くか」の大切さも気付けてよかった。
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読み返して感じたことを書き連ねてきて、一番強く思ったこと。
学校では人見知り、勉強できない、でも部活は頑張っている。ほんとはみんなと友達になりたかったし、勉強だって頑張りたかったし、部活は悩みがたくさんあった。
ただ、ぼくはこの事実を否定したいわけではない。
あの日あの時、ぼくは確かに、必死に生きていたから。誰だってきっとそうだ。毎日もがいてもがいて必死で生きていた。
視野が広がった今なら、なんてちっぽけで薄っぺらかったんだ、もっといろんなチャンスがあったのに、と思うこともある。
でも、あの頃の青かった自分も、ちっぽけな悩みも、なかったことにしてばかにしたくはない。
今のぼくは、今を生きる高校生に、何を伝えられるだろう。何を伝えたいだろう。
間違っても、そんな悩みちっぽけなことだよ、なんてことは言いたくない。だってそれは、絶対にちっぽけなんかじゃない。今のその人にとっては、強大で複雑な悩みなんだ。それをわかったふりして、今の自分を押し付けたくない。
そしたら思いがけず、当時のぼくの"Real"に出会うことができた。
ただ単純に後悔だと思っていたものが、あの時のぼくにはどうしようもできなかったことだったのかなと、受け止められた気がした。
だからぼくも、そんな必死で生きる高校生に、寄り添いたい。
つらいよね、どうにもできないよね、って言って話を聞きたい。どうしたらいいかなって一緒に考えたい。少しだけ長く生きてるぶん、いろんな生き方や考え方があるんだよって、伝えたい。
最高に痛くて、最高に必死だった高校時代よ。