三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

「おいていくよ」の絶望について

僕は、百貨店の中にあるおもちゃ屋でアルバイトをしている。

そこでよくこんな光景を見かける。

 

母:「もうおいていくからね~ばいばーい」

子:びえーーーーーーーん!!!(ぎゃん泣き

 

店にはおもちゃのサンプルがたくさん置いてあるため、通りすがりの子どもは目をギランギランに輝かせる。家に全く同じおもちゃがあり、既に飽きて遊ばなくなっているというのに、おもちゃ屋で見かけるとついつい夢中になってしまう子も多い。(お客さん談)

親としては、おもちゃを買う気はさらさらないのだが、子どもはそんなこと知ったこっちゃないのでなりふり構わず遊び倒す。はやく他の買い物がしたい親は、子どもをおもちゃからひっぱがすためにわざと引き離すような言葉を放つ。子どもは聞こえていてもしばらくは遊んでいるが、本当に親の姿が見えなくなると「ママ~~~!」と叫びながら泣き出すパターンが多い。おもちゃ屋で働いていると、このような光景を本当によく見かける。優しく子どもの遊びに付き合ってあげながら、タイミングを見計らって連れていく親もいるが、ほとんどは半ば強引に連れていこうとする親ばかりだ。

 

さてここでひとつの問いが浮かび上がる。

 

このシチュエーションにおいて、「おいていくよ」という言葉は本当に適切なのだろうか?

 

考えてみてほしい。幼児にとって、親は絶対的存在である。おいていかれてしまっては、帰る方向も術もわからず野垂れ死んでしまう。すなわち、「おいていく」ということは絶望を意味する。「おいていくよ」=「死」である。

このような残酷なシーンが全国のおもちゃ屋で毎日繰り広げられているのだ。

絶望を感じた子どもは、死の危険を察知し、泣く。すると親はすかさず再登場し、店員の目を気にしながら颯爽と連れ去っていく。気にするくらいなら最初から泣かすような真似をするでない。

 

この時期の子どもに、親が突然いなくなるという絶望を味わわせるというのはいかがなものだろうか。幼少期に必要なのは、親からの絶対的な愛だとぼくは思う。無償の愛を注がれた記憶は心身に刻まれ、生涯その子を守っていくだろう。結局戻ってくるのだから、愛がないわけではないのだろうが、子どもが言うことを聞かないときに毎回このように一度絶望を味わわせる手段を取っていても、どうせ親が助けてくれるという思考を植え付けることになるかもしれない。逆に言えば、ピンチの時には助けてくれる人がいるという事実を知っておくことも大事なのかもしれないが。

んん、なんだか言いたいことがよくわからなくなってきたぞ、、、

 

自分が親だったら、どうするだろう。子どもが言うことを聞かなかったらいらいらするだろうか。

なんにせよ大切なのは、ただ大人の事情を押し付けるのではなく、きちんと理由や意図を説明することで理解を促し、子ども自らがそうしようと判断することだと思う。3歳にもなれば、そのくらい伝えることは不可能ではないはずだ。子どもを「子ども」として捉え、なんでもかんでも子ども扱いしてしまうと、どうせ言っても理解してくれないからという思考になり、思いのままに操ろうとしたり操れないといらいらしたりするのではないか。子どもを一人の同じ人間としてみることができれば、相互理解を深めようと歩み寄ることができるはずだ。と、思うのだが、子育てしたことないやつには何もわからないと怒られそうだ。

 

ああ、問題提起したくせに考えがまとまらぬ。

今日のところは、サンプルのおもちゃならいくら遊んでも構わないが、「ディスプレイにつき、お手を触れませぬようお願いいたします」系には頼むから触らないでくれ、、、おじさんが頑張って作ったんだ、、、というおもちゃ屋さんの戯言でおわります。お疲れさまでした。