最近、力を入れて取り組んでいたことがある。
NPO法人あそびっこネットワークが提供する、学生向けボランティア研修の企画・運営である。
内容を簡単に説明すると、
事前研修にて、「遊び」を切り口に子どもをみる視点や方法を体感的にインプットし、
現場実践にて、丸2日間実際に冒険遊び場で子どもと思いっきり遊び、
事後研修にて、現場で感じて考えたことを整理し、深める
といった4日間のプログラムになっている。
僕は学生ボランティアの企画・運営をNPO職員と一緒にするチャンスをいただくことができたので、これまで熱を入れて取り組んできた。
やってきたこととしては、こんな感じ。
・NPOとしての学生ボランティアの趣旨、位置付けの整理
・ボランティア説明会に向けた広報戦略、マーケティング
・ボランティア募集サイトに掲載する文章や構成の検討
・チラシ作成
・説明会、事前研修、事後研修のコンテンツ企画・当日の運営
・現場実践での学生のフォロー
・次回へ向けたブラッシュアップ
こうして並べて振り返ってみると、何気にチラシ作成が一番大変だったかもしれない。センスがなさすぎて、、笑
しかし、総じて楽しくて楽しくて仕方なかった。
最初は全然人が集まらずに挫折し。
説明会でのしゃべりはたどたどしさ極まりなく。
研修での場づくりは納得のいくものではなかった。
けれど、今回企画・運営をともにおこなった職員さんとの会議では、研修全体、ないしは各研修の目的をああでもないこうでもないと話しながら明確にしていき、そこから広報や研修内容に落としていくためにたくさんの対話を重ねた。
学生たちに伝えたいことってなんだろうと何度も何度も確認した。もはや相棒。
というのも、僕には強い思いがあったからだ。
僕は昨年の学生ボランティアに参加した際、遊びに没頭する子どもたちの姿を目にし、めちゃくちゃに感銘を受けた。
そしてその後インターンとして継続的にNPO法人あそびっこネットワークに関わることを決め、土日に冒険遊び場で活動をしてきた。
子どもを中心に、お父さんお母さん、地域の方、NPO職員などたくさんの人と関わる中で、この素敵な場所で子どもたちが夢中に遊ぶ姿をもっともっと多くの学生に見てほしいと思うようになった。
何かに没頭するときの子どもは、とんでもないパワーを放っている。
「やってみたい!」「おもしろそう!」「いいこと思いついた!」から始まる遊びは、常に主体的であり、自己目的的であり、創造的である。
遊びの中で出会う初めての感情も、人との衝突も、できないことも、葛藤も、交渉も、試行錯誤も、成功も失敗も、腹の底から笑ったことも、全部がその人の未来につながる。
遊びの中で「おもしろさ」を追求する体験を積み重ねることは、人生を通して「おもしろく生きる」ことを追求する姿勢や力につながっていくと、僕は信じている。
特に、変化の激しい先行き不透明なこれからの時代は、そんな力の重要性が確実に高まってくる。
だからこそ僕は、多くの学生に、大人・親になる前に、「遊び」を通して子どもや社会をみて、感じて、考える体験をしてほしいと強く思うようになった。
その体験が、「自分はどう生きていきたいか」という問いにつながると嬉しいなと思いながら。
そんなこんなで先日、初めて自分が携わった学生ボランティアでの事後研修が終わり、長い間走ってきたことがひと段落した(また新しいタームが既に始まっているのだが!)。
そこでの参加者の表情や言葉、実施後のアンケートを見て、自分の思いが届いたことを実感した。ぽこぽこと喜びがこみ上げた。こんな感情は、意外にも初めてかもしれない。
ああ、僕が望む仕事って、働くって、こういうことだよなあと思った。
人や社会に対する自分の願いがあって。
一緒に働く人の願いがあって。
それを共有しあって擦り合わせたものを追いかけて、ああでもないこうでもないって言いながら頭と体を動かして一つのものを作っていく。
その先で僕らの願いが届いた瞬間に、喜びや幸せがあるんだなあ、と。
そんなふうに、僕は働きたい。というか、生きていきたい。
無償インターンなので正確にはお金は発生していないけれど、これでお金がもらえるのならこのうえなく幸せだと思う。
今の世の中では、「自分のやりたいことを見つけよう!」と盛んに叫ばれていて、実際にボランティア等で中高生と話していても、自分のやりたいことがわからずに悩んでいる人が多い。
本当に「やりたいこと」を仕事にしているのって、例えば俳優や画家、音楽家、スポーツ選手であったり、教授や社長といった、働くことそのものが目的である人々のことで、それって単純に「遊び」と一緒である。
彼らはきっと、自分が「働いている」という感覚よりも、「遊んでいる」という感覚のほうが近いのではないだろうか。
だから、その「やりたいこと」のためにやらなければならないこと、例えば練習や稽古、試行錯誤などはきっと彼らにとって苦ではない。
たしかに上に挙げた人たちのように、働くこと自体を目的として生きられたらさぞ楽しいだろう。
しかし、みんながみんなそうなると社会が回らないだろうと言う人がいる。今の時点では、僕もそう思う。
けれど社会は確実に変化していて、人間がやりたくないこと、やらなくていいことはますますテクノロジーが代替していく。その波はたぶん、僕らが思っているよりずっと早い。
それに、ベーシックインカムの議論だってある。
そのとき、人はどうなるのだろう。
やりたくもない、つまらない仕事をやらなくてもよくなったとき、「働く」ことの意味はどう変わるのだろう。
そんな漠然とした不安が蔓延しているからこそ、大人は若者に、「やりたいこと」を見つけることを急かす。
幼い頃から、「あなたのやりたいことは何?」と言われ続けた若者は、自分のやりたいことがわからない、と悩んでしまう。
今回僕は、この学生ボランティア企画を通して、具体的な「やりたいこと・好きなこと・得意なこと」と、自分の「願い」の両輪が大切だと感じた。
かつて学部の頃に就職活動をしていた僕は、自分の「やりたいこと」などわからなかった。
ただ、内定がほしかった。卒業したら働かなければいけないと思い込んでいたから、働かせてくれる場所を確保したかった。
今思えば。
具体的な「やりたいこと」なんて、20年ちょっと生きたところでばしっと見つかりはしないだろう。ましてや中高生なんてなおさらだ。あれこれ悩んだって仕方がない。「やりたいこと」を見つけ出すための引き出しが圧倒的に少ないのだから。
僕はそれにとらわれず、自分の「願い」も同時に模索するべきだった。
自分がこの社会においてどんな人でいたいのか、どんな生き方をしたいのか、自分の大切な人たちにどんなふうに生きてほしいのか、そのために自分は社会にどう働きかけるべきなのか、といったことに全力で向き合うべきだった。
仕事そのものを目的的に楽しむのが難しいのなら、自分の望む自分や社会のあり方と、そこへ向かうための「手段」としての仕事、その両方を模索する必要があったのだ。
もちろんそのための引き出しが少ないので、考えるだけでなく、動いて動いて、感じて、また考えて。ひとつのことに深く入り込んでみて。
この考え方でいくと、僕にとって理想の「働く」とは、
『やりたいこと』をしながら『願い』を追いかけること
だとわかった。
学生ボランティア企画をがっつりやってみて気づいたことを整理すると、
僕にはまず、「全ての人が自分らしく、おもしろく生きられる社会であってほしい」という『願い』がある。
それは、人々が「自分が何に喜びや幸せを感じ、何を大切にしたいか知っている」かつ「そんな自分の人生を創造していく力を持っている」状態である。
そのために、子どもに対しては、
「幼少期に豊かな遊び体験・没頭体験を積み重ねることで、自分・他者・社会を知り、おもしろく生きる力の土台を育んでほしい」
という願いがあり、
大人に対しては、
「全ての大人に、自分らしく、おもしろく生きていてほしい」
「そんな人生を自分で創造していく力を育むには、豊かな遊び体験が大切だということを知っていてほしい」
という願いがある。
これらから、今回の学生ボランティア企画に込める願いが派生していた。
そしてその願いを届けるための具体的な行動としてやらなければならなかったことが、ボランティアの広報・マーケティング、文章の執筆・編集、研修内容の企画・運営等であった。
偶然にもこれらは、僕自身の「やりたいこと」「好きなこと」でもあった。
このように、自分の「願い」と「やりたいこと」の両輪がしっかりと重なっていたからこそ、僕はやっていて最高に幸せだったし、こんなふうに働きたいなと思えたのかもしれない。
今の僕なら、就職活動で「何か質問はありますか?」と聞かれたら、「あなたは、どんな願いをあなたの仕事にこめて働いていますか?」と全員に問いたい。
もちろん、ない人もいるだろうから、ある場合だけで構わない。あることが正義だとも思わない。
でも僕は、その願いを惜しみなく語ってくれるような人、共鳴し合えるような人たちとともに、何かを追いかけていきたい。
なんとなく大きなことを言っているが、たぶんチームスポーツとかも一緒なんじゃないかな。だから、学生時代にいたバレーサークルの、ばかみたいに思っていることを言い合ってチームを作っていくような熱いところが僕は好きだった。
汗水流して働く社会人にこんなことを言ったら、綺麗事だと笑われるだろうか。
目の前のことに忙殺されていたら、願いなんてどこかへいってしまうのだろうか。
日本の現状としては、「やりたくない」「おもしろくない」と感じながら働いている人が多いのは事実だろう。
実際、僕もそうだった経験があるからこそ、僕にとってそれはとても苦しいことだとわかった。仕事とはそういうものだと割り切って続けることは、僕にはできなかった。
僕はそういう人生を決して否定はしないし、そうやって働きながらその中で幸せや楽しさを見出して精一杯生きている人たちが、今の社会を動かしていると思う。
僕は東京にきて、「願い」も「やりたいこと」もない人、「願い」はあるけどやっていることは「やりたいこと」ではない人、「願い」はないけど「やりたいこと」をやっている人、いろんな人に出会った。
そして、その一つ一つの人生が尊いと思った。こんなにいろんな人生があるんだから、僕だって僕が生きたいように生きればいいやんけ、と思えるようになった。
だからこそ、僕は誰に何と言われようと、「『やりたいこと』をしながら『願い』を追いかける」という働き方、というか生き方をしていきたい。
そうやって働ける場所や仲間を見つけたり、創ったりしていきたいと思う。
そうやって生きるということを、自分自身で選びたいと思う。
そのうえで僕の理想を言えば、マイナスな思いを抱えながら働くよりも、明るい未来を願いながら働く人が溢れる社会であってほしい。人生の大半を占める労働だからこそ。
「働き方改革」という言葉だけが一人歩きしている気がするが、本当の改革は制度や仕組みをどうこうすることではなく、「働く」をポジティブに捉える人を増やすことではないだろうか。
僕が今できることは、「遊び」という切り口で子どもたちや学生と関わることだ。
大事なことだから繰り返すけれど、自分の「やりたい!」に夢中になる中で育まれるものは、きっと、いや確実に、その人が自分自身の人生をおもしろくしていく力につながる。
今の僕なら、そう断言できる。
それを確かめるために、僕は大学院にきた。
大学院にきてよかったと、やっと胸を張って言えるようになった。
今の子どもたちには、できる限りたくさん、何かに没頭する瞬間を積み重ねてほしい。
そして今の学生たちには、そんな子どもたちの姿を見て、「遊び」とは何かを考えることによって、自分の人生に矢印を向けてほしい。
ぼんやりと僕の中にあった願いを手探りで追いかける中で、ここまでこれたことが嬉しい。
その過程で、僕の話を聞いてくれたり、言語化を手伝ってくれたり、対話を重ねてくれた人たちがいることを僕は忘れない。
今日も子どもたちは、遊んでいる。
大人たちは、働いている。
この地球で生きる人間が、社会を作っている。
自分にとって、「働く」ってどういうことだろうか。
自分には「願い」があるだろうか。
そもそも「やりたいこと」をやるのが正しいのだろうか。
働かなくても生きていける時代がきたとき、僕らは何を選ぶだろうか。おもしろく生きられるだろうか。
考えるも考えないも自由だけれど、少なくとも僕は、自分の中に浮かんできた問いをないがしろにせず、向き合い続けたい。