あけましておめでとうございます。
今年は初めて海外で年越ししました。
ストックホルムでは、23時頃からばんばんとあちこちで花火が上がり始めたので、僕も街に繰り出して年越しの瞬間を目撃してきました。昼間は余裕で座れた電車が満員になるくらい混んでいて、まじでどこにみんな潜んでたん?って感じ。
思ってたよりもしょぼい花火だったけど、これは昨今の気候変動デモによる影響で、自治体が例年の大規模な花火を若干自粛していたからなのだとエアビーのおじさんが言っていた。
それにしても今年は、年越しした感がまじでない。
例年だといくつかの忘年会で年の瀬に騒ぎ倒し、クリスマスを焦燥感の中過ごし、実家で年越しそばを食べながらだらだらテレビをみて、親戚の集まりに顔を出してわいわいおせちを食べ、高校のバレー部のOB戦に行き、新年会でまた騒ぎ倒す、みたいな年末年始を過ごしてきた。
そんな中で、よしまた今年も新たな気持ちで頑張るか、みたいな気持ちがぬくぬくと湧いてきてたんだよなあ。
生まれ育った日本の文化が身体に染み込んでいるんだなあと、日本人である自分を再認識。
スウェーデンに住んでいると、日本のここっておかしいよね、ここもっとよくなればいいのになあ、どうやって変えていけるのかな、自分には何ができるのかな、とか考える機会が多くて、そのたびに力のない自分にへこむ、みたいなことが多々ある。
けれど一方で、年末年始の文化だったり、人のあたたかさ、おせっかいなところ、気遣いをしあえるところ、とかとか、日本のこういうとこ好きだなって思うこともたくさんあるし、なんだかんだ日本のために何かしたいと思う自分がいる。
なんにしても一長一短ですな。
民主主義が第一のこの国にきてからというもの、国や政治、社会の問題に関心のない人が多い日本に対して、はじめはただただ呆然としてしまっていた。
戦っている人が人生の大部分を犠牲にしなくてはならなくて、そのうえたくさんの批判にさらされて。
それならもう戦うのはやめようと諦めてきた人がどれだけいたことか。
戦わずに憂いているだけの人、戦っている人を攻撃する人に、ある種の軽蔑を抱いていた。反省。
けれど最近は、少しずつ変わってきた。
社会と個人の生活って、本当は繋がっているんだけど、繋がっていることを実感することが意外と難しい。
個人の日々の生活が最優先で、自分の人生をなんとか生きることに必死で、抵抗や参画の仕方がただわからない、向き合う余裕がない、という人も多くいるんだと思うようになった。
その「社会」と「個人」の繋がりを人々に認識させるのが教育の仕事で、生活を営みながら社会参画をする「余裕」を生み出すのが国の仕事(社会福祉)だろうと思う。
個人の努力どうこうの話ではない。
今の日本は、自分の人生を自分の力で創っていくことを「生きる力」と称して、個人にその責任を委ねているというか、ある枠の中であなたの幸せはあなたなりに感じてくださいね、とある意味放り投げているように思う。
それは大事なことだから、間違っていると言いたいわけではなくて、その前に国としてもっと保障すべきものがあるでしょ、と思う。
自分は社会を構成する、影響を与え得る一個人であるということ、そして社会を創るための行動と自分の人生を生きることは両立し得るということをみんなが自覚できればいいなあ。
個人と社会の話でいうと、最近世界でのいろんな悲しいニュースを目にすることが増え、それが自分ごとのようにとても苦しくなることが多い。
それはきっと、様々なルーツを持った友人が増え、どこかの国で起こっていることが、自分とまったく関係のないことではなくなったからというのが一番大きな理由だと思う。
アメリカの友達もイランの友達もいるし、オーストラリアに住んでいる友達もいる中で、国同士のぶつかり合いや気候変動などのこれだけ大きな出来事に関心を持たないはずがない。
これだけ大きな出来事に目を向けて苦しくなって、目の前の今やっていることが信じられなくなって、どうしようもなくなって。
それでも、自分にはその日の生活があって、追いかけたいことがあって。その折り合いの中でなんとか生きていくしかなくて。
「悲しみの忘れ方」とか、「悲しみなんて笑い飛ばせ」とかいう歌があるけれど、そんな簡単なもんじゃねえぞ、と思う。乗り越えるとか、そういう問題じゃないねん。
そんなこと今の自分には到底できないし、そんな人ではいたくないと思うから。
いくつもの悲しみの中で、自分はそれらにどう向き合っていきたいかちゃんと考えながら、ささやかに抵抗しながら、一緒に生きていきたいと思う。たぶん祈りって、そういうもんなんじゃないかと思う。
しんど〜〜〜って思うけど、そんな生き方を選びたいと思う25歳の始まりでした。
今年もよろしくお願いいたします。
短いけど今回はこんな感じで。
へいどー!