三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

漫画「君たちはどう生きるか」を読んで

僕は、つくづくキャッチコピーや謳い文句に弱い。

 

「歴史的名著が、80年の時を経て、ついに漫画化!」

「コピーライター糸井重里さん、エッセイスト松浦弥太郎さん絶賛!」

「100万部突破!」

 

そんな言葉たちの思惑通り、僕は「君たちはどう生きるか」を買った。

もともと僕はこの本を知らなかった。

原作は随分昔に書かれたもので、多くの人に読み継がれてきたらしい。

それが今、漫画版として生まれ変わり、世代を超えてまた多くの人の手に渡っている。

僕は、原作の小説を買おうか、漫画版を買おうか迷った結果、漫画版を選んだ。

時代を超えた名作が、形を変えて今の人たちの心に響いているという事実はとても素晴らしいことであり、自分もその事実を味わいたいと思ったからだ。

 

そんなわけで、漫画「君たちはどう生きるか」を読んで考えたことを、ここに残したいと思う。

 

*****

 

 中学生のコペル君は、多感な時期だ。

学校で勉強し、友達と過ごしながら、様々なことを感じて暮らしている。

 

ある日コペル君は、友達と交わした約束を破ってしまう。

自分を責めたて、犯した過ちに涙するコペル君の話を聞くのは、叔父さん。

おじさんは、亡くなったコペル君のお父さんから、「息子に立派な人間になってほしい」という願いを受け継いでいた。

 

コペル君が正しい道を自分の力で進んでいけるよう、おじさんはノートを書く。

おじさんのノートを読みながら、コペル君の考え方は少しずつ変わっていき、正しい生き方を見つけていく。

 

 

 

 

 

「自分で考え、自分で自分を決定する」

人間が人間らしく生きるうえで大切なことを、おじさんはコペル君に伝えた。

そしてそれは、間違いなく読者の胸に突き刺さる。

僕も、その一人だ。

あっという間に読み終わり、最後は涙が止まらなかった。

 

自分のみじめさと向き合い、どうしたいか考え、そしてどうするかを自分自身で決めて前に進んでいったコペル君。

そしてラスト、原作著者の吉野源三郎さんから、問いかけられる。

 

「君たちは、どう生きるか」

 

コペル君の葛藤や変化を目の当たりにし、自分自身の生き方を見つめざるをえない。

これから新しいスタートを切ろうとしている僕にとって、本当に大切な一冊となった。 

 

 

 

おじさんからコペル君に伝えられることそのものから学ぶことは、たくさんある。

それとは別に、この本の中でいいなと思ったことがあった。

それは、「感じたこと、考えたことを素直に打ち明け、それに真剣に答えてくれる人がいるということは、何よりも尊い」ということだ。

 

尊い」と感じると、僕は涙が出る。

物語自体ではなく、おじさんとコペル君の素敵な関係に、思わず涙してしまった。

 

僕たちは時として、どうしても周りの目を気にしてしまう。

自分の考えを否定されたらどうしよう

まじめな話をして笑われたらどうしよう

そんなことを考えてしまい、つい自分の中のものを外に出せないときが(少なくとも僕には)たくさんあった。

 

反対に、まじめに、素直に本心を話している人のことを笑ったり、相手にしなかったりしてしまうこともある。

 

これは、お互いにとても不幸なことだと痛感した。

コペル君は、感じたことや発見したこと、自分の過ち、いろいろなことを素直におじさんに打ち明けている。そしておじさんは、コペル君の話をごまかすことなく真摯に受け止め、おじさんの言葉で返している。

純粋な心からの言葉でキャッチボールをしているのだ。

このキャッチボールができる関係性が、何よりも美しく、尊いと思った。

 

家族や恋人、友人、、

自分は、そんな素敵な関係性を築けているだろうか。いや、まだまだだ。

どんなときも、自分の言葉で伝えられる人でいたいし、どんな言葉や気持ちも大きく受け止められる人でありたい。

 

 

 

 

ところで、この漫画版は100万部のベストセラーとなっている。

読んでみて、売れるのも頷けるほど「伝え方」が非常に上手いなと感じた。

 

道徳的な本はこの世に無数に存在する。

長い年月をかけて人類が考えてきたこと、導き出してきた真理は、小さな頃から親や先生に言われてきたことが多い。「どこかで聞いてきたけど忘れかけていた」ということが大いにある。

つまり、同じようなことを書いていたとしても伝え方によって読み手が感じることやその深さは大きく変わるということ。

その書物を読み、どう受け取るかは読み手次第であり、その書物をどう書き、どう伝えるかは書き手次第なのだ。

 

これを僕は、以前「夢をかなえるゾウ」という本を読んだときに学んだ。

一種の自己啓発本と同じで、どこかで聞いたことのあるような教訓がいくつも述べられているのだが、その伝え方が、素晴らしいのだ。

インドの神様・ガネーシャが、関西弁を操り、自分を変えたくても変えられない男に対してポップに物申していくストーリー。

非常に共感しやすく人情に溢れており、言葉がすっと入ってくる。

僕は最後には泣いてしまうほどストーリーの中に入り込んでしまった。(泣きすぎ) 

 

 

 

君たちはどう生きるか」では、読者は(おそらく)コぺル君の立場に立って共感を得ると思われる。

おじさんがコペル君にノートを通じて伝える言葉は、僕くらいの年齢になるとどこかで聞いたことのあるようなことばかりだ。

でもそれが、じんじんと胸に響いてくる。

コペル君とおじさん、その周りでの出来事が漫画でわかりやすく描かれ、章の最後でおじさんがコペル君に向けて書いたノートが登場。

そのノートは(おそらく)原文そのままの活字で書かれており、ノートを通じて読者もコペル君と同じようにメッセージを受け取ることになる。

 

とっつきづらさがなく、小説や道徳本と聞いてうっとひるんでしまう人にとっても非常に読みやすいよう考えられている。

原作を上手く活用し、漫画にリメイクすることによって施された「わかりやすさ」「受け取りやすさ」は、ネットが普及し活字離れの進んだ現代にジャストフィット。

 

人々に受け入れられるものというのは、「伝え方」に優れているものであり、自分の伝え方も考え直したいと、改めて思った。

 

 

 *****

 

 

先日、中学時代の同期ふたりと久しぶりに酒を交わした。

思い出話やしょーもないエロ話に花が咲いた。

酒が進み、近頃まとまりだした自分の生き方、考え方を話した。

 

”おれは、就活に失敗して、半年で会社を辞めた。夢中になって働くことのできないつらさを思い知った。だから、もう一度考え直し、自分が夢中に生きていくための道を選んだ。みんなも、諦めてほしくないんだ、自分を縛り付けず、多くの人にいきいきと働いてほしい。”と。

 

冷静になった今、文字にしてみるとくさすぎる。無性に恥ずかしくなる。

でも、本心だった。僕は、大まじめだった。

 

ふたりに言われた言葉は、こうだった。

「誰もがおまえみたいに生きられるわけじゃないよ」

「やりたくないことをがまんして働いとる人がたくさんおるんよ。あんたはやりたいことに向かっていける側の人間なんよ。うらやましいわ。」

 

大学を中退し、今は地元で働いているふたりに大まじめに反論された。

 

「うちらは、自分で道を切り開いていくことができなかった人間なんよ。だから、あんたには期待しとうとよ」

 

 

僕は、就職し、半年で退職し、大学院へ進む。それは、全部自分で決めたことだ。

自分は夢中に生きられないことがつらかった。だから、どうしたらそうしていけるかを考え、その道を選択した。夢中に生きられないことは、誰にだってつらいことだと思い込んだ。

 

でも、それは決めつけでしかなかった。

ふたりの友人も、自分で中退することを決め、生きていく道を自分で選んでいた。

何が幸せかどうかは、ふたりが決めることだ。

 

僕は幸せになるために、夢中に生きるために道を選んだし、これからもそうしていくけれど、

自分で決めた道の上でのんびり歩きながら、幸せを探していく人もいるんだと、思い知った。

 

 

でもやはり、身近な人が、自分にはやりたいことなんてない、努力していけるのがうらやましいと言い、自らの可能性を信じ切れずに諦めてしまっていることは、つらかった。

後ろ向きに考えず、自信を持っていこうと彼らが思い直すほど、今の僕の言葉は彼らに届かなかった。

 

 

だからこそ、僕はもう一度教育を学びに行くのだ。

「夢中になる」ということが持つ可能性を、追求しに行くのだ。

幼少期に遊びや勉強に夢中になる経験を重ね、その楽しさを心に刻むことによって、生涯を通して夢中に生きていく喜びを追い求める大人になれるのではないか

みんな、その可能性を秘めているのではないかと、僕は信じている。 

少なくとも、僕の人生を持って、証明していきたい。

 

 

 

 

君たちはどう生きるか

その壮大な問いかけは、改めて僕を突き動かしてくれた。

これから先も、何度でも何度でも問い直していこう。

そしてそのたびに、また力強く踏み出そう。

 

僕たち人間は、自分で自分を決定する力をもっている。

どう生きるか、自分で決めることができるのだから。