三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

ご無沙汰サタデー!

アイドルの曲にありそうなタイトルをつけてみました、どうも。

フィリピンから帰って以来、中学からの親友、辞めた会社の同期、バレー部時代の顧問、大学時代の同期、バイト先の同僚など多方面と立て続けにごはんにいく機会があり、感じたことがあったのでここに記しておくぜ。

 

 

まず1つ目。『深く語り合うことは楽しい!』

それぞれに、ぼくがどう生きていきたいか、何をしたいかについて、定まりつつあることや模索中のことなどをざっくばらんに話した。一緒に悩んでくれたり、アドバイスをくれたり、いいねって言ってくれたり、返しがそれぞれ違ったのもおもしろかったのだが、話していくうちに自分の中でまとまっていく感覚があった。自分がさらけ出すということは、相手もさらけ出してくれるということなんだなと感じられて、とても楽しかった。反対に、バイト先の人たちには、それが話せなかった。大勢での飲み会だったこと、安心感を築けていなかったこともあっただろうが、生き方を語り合える人を大事にしていきたいと心底思った。

 

2つ目。『ぼくらは不平等であり、人生とはそれに向き合って、選んでいくということ』

中学時代の顧問の先生が、「人間は生まれながらに能力の差がある。同じだけ努力しても勉強できるやつとできないやつがいたり、スポーツができるやつとできないやつがいる。それを中学の頃からわからせてあげたい。その上で自分がどうしていくか考えて欲しい。」的なことを言っていて、なるほどなと思った。ぼくは、子どもたちが将来自分の本当にやりたいことを見つけたり、壁にぶつかった時に踏ん張れたり、自分の頭で考えて自力で人生を切り拓いていけるようになってほしくて、そのために幼少期にどういうアプローチをしたらいいのかなというのを研究したいと思っている。しかし、本当のところ、全員が全員やりたいことをやってしまうと、社会が回らなくなってしまう。誰もやりたがらないことをやっている人がいるからこそ、ぼくたちは今こうして暮らしているのだ。その人たちは、やりたいことが見つからなかったのかもしれない。先に家族ができて、守るために最善の選択をしたのかもしれない。人にはそれぞれの人生があって、不平等ながらに必死に生きているんだ。やりたいことやれなかった人が負けとかそういうことでもなくて、、、うーんどうしたものかと悩みながらこの話を大学時代の同期にすると、「それはそうだけど、おれは悪いけどやりたいことやるし、自分の人生を生きるわ。」と言われ、すんっと腑に落ちた。そうだ、それだ、と。ぼくは子どもたちに、「やりたいことをやってほしい」のではなく、「自分にとっての人生や幸せを見つめ、自分の力で力強く歩んでほしい」のだ。人間の不平等さを目の当たりにして悩んだり、当たり前とされる幸せと向き合ったり、自分が夢中になれるものを探したりしながら、最終的に自分の人生を誇れる人になってほしい。それは、ぼくがそうなりたいからというのもあるし、そうでない人たちと出会ったからというのもある。ぼくとしては、定まりつつもわりかしふわふわ迷っていたけれど、広く深く考えた上で自分はこうすると決めていくことが大事だと、ようやく気づけたいい機会だった。

 

3つ目。『最強なのは、愛される人』

ぼくは今まで、何かを極めたいと思っていた。先行き不透明で何が起こるかわからないこの時代を生きる人たちの中には、漠然と将来に不安を感じる人も多いだろう。(まあいつの時代も何が起こるかなんてわからないのだが。)ぼくもそのひとりだ。例えば会社から突然リストラされたり、所属してた組織が突然解体されたときのために、1人で生きていく力をつけなければ!!と謎に焦っていた。もちろん今も、何かを極めたいという思いは変わらないのだが、人と話す中で気づいたのは、人から愛される力は最強だということだった。つまり、何かを極めるという方向性を、スキル的なものではなく、人間力的なものに向けてみるということだ。どこにいっても誰からも愛されるような人であれば、別の場所でもやっていけるだろうし、人脈があれば大変なときに助けてくれる人が増えるだろう。世界広しといえど、きっと、共通の「人を惹きつける何か」があると思う。愛されるスペシャリストになれるよう、自分を高めていきたい。視野が広がった感じがした。

 

最後。『ぼくは、変わった』

1つ目でも書いたが、バイト先の送別会が、あまり楽しくなかったのだ。いや、正確にいうとそれなりに楽しかったのだが、その日より前にいろんな人とサシや3人で深くまじめに語り合ってたもんで、そっちのほうが断然楽しかったなと感じてしまったのだ。大学時代のぼくは、今この瞬間が楽しければ最高、楽しい予定をとにかく詰め込みたい、仲良い人とばか騒ぎしたい、人の楽しそうなSNSは見たくない、という感じでとにかく薄っぺらかったし、まじめに語り合うなんてまっぴらごめんだった。そもそも何かについて深く考えることがなかったから、話し合う場があっても何も発言しなかったり、その場しのぎの感情で乗り過ごしたりしていた。そんなぼくが、「まじめに語り合うの超楽しいやんけ」と思うまでに至ったのだ。これはかなりの変化ではないか。この原因は、やはりこの1年の出来事が大きい。新卒で入社し、退職し、大学院受験をし、フリーターを始めた。1人でいる時間が増え、考える時間もうんと増えた。考えるようになると、それをまとめて記すようになり、考えたことを人に話すようになり、考えてる人の話を聞きたいと思うようになった。そして今まで求めてたはずの時間は、物足りないと思うようになった。もちろん本当にすきな人と心から笑いあったり、まだ深い仲ではない人と打ち解けるための時間はほしいなと思うけれども!ほんで、この「自分が変わった」という感覚すら、人と話して、「まさかこんなに変わってると思わなかった」と言われて初めて気付かされた。あ、おれ、変わったんだって、嬉しくなった。これからは、分かり合いたいなと思える人との関係を大切にしていけばいいんだって思うと心が弾んだ。自分が変わるということは、関わる人も変わっていくということなのかな。大学院に進むことが、さらに楽しみになった。まあでも逆に、大学生から社会人になって変わらない人の方が少ないか。慢心せず、やってこうかね。

 

感じたこと振り返るの、身についてきたなあ。しかしなんとなんと、留学後英語はほとんど勉強できておりません!!うんち!!ハウスキーパーと毎日連絡取ってるというのを口実にサボってしまっています、うんち。

 

花粉にやられにやられてまして、鼻で一切息ができずに味覚も遮断されておりますが、同じ病のみなさん、強く生きようね。

では、さよなランナウェイ〜〜