三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

余暇について考えてみよっか。

失われていたもみあげが生え揃ってくるとともに、時の流れの早さを感じる今日この頃です。

スウェーデンは徐々に徐々に寒さと暗さが増しております。僕もビタミンD剤を飲み始めたので、これで北欧人の仲間入りです。いぇい。

 

さて、最近は第1タームの授業が終わり、新たな授業が始まりました。

僕は第1タームの授業で課題の提出が間に合わなかったり間に合わなかったりして落ち込んだりもしていましたが(100000000%自分のせい)、今のところ生きています。

 

 

僕は先日の授業の自由課題で、スウェーデンの学校の放課後事情について調べました。

それが非常におもしろかったので、ちょっとばかりここでシェアしてみたいと思います。

 

 

スウェーデンにも、日本と同様に学童らしきものが存在しています。そして、子どもたちの8割ほどはそこに所属しているのだそう。

 

その理由は、日本よりも圧倒的に共働きが進んでいるから。

日本も近年女性の社会進出に伴い、保育園や学童の待機児童問題が大きく取り上げられていますが、なんとスウェーデンがその現実に直面してせっせと改革を始めたのは、1970年代。

日本はぽっきり50年も遅れているのです。まあ単純に人の数が全然違うというのもあるけれど、改革のスピードというのは段違いだと思います。

 

そもそもスウェーデンは、何においても新しいことを取り入れるのがものすごく早い。これは、8割にのぼる高い投票率のおかげだと思われます。

ほとんどの人が投票に行くから、人々の望む社会がすぐに実現されていく。これほどすばらしいことがありますか、、、。社会のあり方として一番理想的だと思いません?!

これについてはまた別の機会にちゃんと掘り下げたいなあと思っておりまんす。ていうか日本のほとんどの問題って、投票率の低さとか、政治への無関心さ、社会参画への意識の低さ、自分たちが社会を作っている、変えられるという自覚のなさなどなどに起因しているんじゃなかろうか。

 

 

話が逸れました。 

学童はもちろん公教育と同じく無料で、しかも学校と同様に教育のカリキュラムの一部として扱われています。

学童で働く人々もしっかりと国に雇用されていて、大学を出ているので専門性も持ち合わせています。

 

対して日本は、学童に行くのもお金がかかる、待遇が悪くて人材不足、場所も足りていない、などなど問題山積み。

 

しかし、スウェーデンと日本でもっとも異なっていると感じたのは、そもそもの「余暇」の捉え方の違いです。

 

日本の学童は、親が働いていて家に居場所のない子どもたちを一時的に預かる生活の場として機能しています。

つまり親たちの一番の願いは、「預かっていてほしい」ということ。児童を狙った凶悪犯罪が世間を賑わすことも多い中、安心安全な場所を一番に求めているのです。

 

一方スウェーデンでは、たしかに形としては預かっていることになってはいるけれど、親がそこに求めるものは、子どもの「自由」です。

学校にいる間はどうしても科目ややるべきことが決まっていて、選択肢が少なくなってしまうけれど、放課後となれば、その時間をどう使うかは子ども自身が決めていい。

 

スウェーデンでは、この「自由時間」こそが子どもにとって特に重要であり、自由時間になされる意思決定や衝突、交渉、創造などといったものが何より大事にされています。

故に、そこにいる大人に求められることは、いかに子どもたちがやりたいことをやれる環境を作り、見守るか、といったことになるのです。

プレイワークの考え方と同じですね。素敵んご。

 

日本だとどうしても放課後は、「監視」「預かる」といった文脈になりがちです。

例えば、宿題をやらせて、この時間は外で遊んで、この時間からは室内で遊んで、この時間にみんな揃っておやつを食べて、みたいな。それって学校とほぼ変わらないし、単なる作業ですよね。

もちろん安全に預かるということは大前提としてすごく大事なことですが、子どもたちの余暇の時間は大人の都合によって統制されてしまっているんだなと改めて考えてみて思いました。

 

だからこそ、放課後に関わる人材にはお金がきちんと支払われません。そこに高い価値を求められていないから。

ただ「預かる」だけなら、特に専門性もなくたって誰でもできるでしょ、という価値観が日本には蔓延っているように思います。

保育士に対する厳しい風当たりも、この規範からくるものが大きいのではないでしょうか。

子どもの育ちにおいて、幼児期に関わる人材がどれだけ大切かを軽視するなんて、なんてこったとおったまげてしまいますが。普通に引いちゃう。

 

 

そもそも「余暇」って自分だけのものだから、過ごし方は全部自分が決めていいはずですよね。

余暇が充実していて、自分がしたいことによって幸せを得られていれば、学校や仕事といったやらなければいけないこともより一層充実するような気がしませんか(僕はします)。要はバランスですよね。

 

しかし日本では、その自由であるはずの「余暇」が、それ以外のことに侵略されていることが多いのではないでしょうか。事実ベースでも、気持ちベースでも。

例えば、残業が多ければ余暇の時間は物理的に削られるし、休みの日でもクライアントから電話がかかってくる可能性があったら休みのくせして全然休んでる気持ちにならないし、親からやらされた習い事をつまらんなあと思いながらやっていれば結局子どもの自由意志は侵害されていますよね。

 

有給も育休も満足に取れない、取れたとしても他人を気にしなければならない、気にしていたらしっかりと自分の余暇を満喫できない、なんという負のループ。

 

 

というかそもそも、何かを統制されている時点でもうそれは「余暇」ではないですよね、、?

日本の子どもたちは、放課後という「余暇」を与えられているように見せかけて、実は自由な時間ってめちゃくちゃに少ない気がします。

本当に自分のしたいことに思いっきり費やすことのできる時間が。

 

根本的にその時間の量が、圧倒的に日本とスウェーデンでは違うんですよね。そりゃあ幸福度も大きく違ってきますわな、だって自分で自分のことを決められる時間が多いか少ないかなんて、どっちが幸せかなんて明らかでしょう。子どもにとっても大人にとっても。

何でその自由な時間が、子どもにとって「無駄」なものだと認識されてしまうんでしょうか。

無駄に遊んでばかりいるよりは習い事や塾といった将来に役立ちそうなことをさせたいという親の思いが、かえって子どもから自己決定や創造性を奪っているとも知らずに。悲しい限り。

 

放課後支援体制の仕組みをしっかりと整えたところで、結局は人々の子どもの自由時間に対する価値観や捉え方が変わらない限り、その時間は子どもたちにとって本当に意味のあるものにはならないんだろうなと思います。

 

どうすればいいんだろうなあ。人々の価値観が変わっていくことによって制度が少しずつ変わっていくのと、大きく制度が変わることによって人々の価値観が変わっていくの、どっちがいいんですかね。。

democracyがしっかりと根を張っているスウェーデンみたいな国だったら、人々の価値観がすぐに政治や制度に反映されるから、もちろん前者なのだろうけど、日本だといきなり選挙に行く人が激増するとも思えないし。大改革者みたいな人がどーーーんって変えるしかないのか??わからん〜〜〜〜

 

結局いろいろとぐちゃぐちゃ書いてしまいました。なんか固くて暗い感じになりましたが、全然元気なのでご心配なさらずに!

まだまだ考えなければいけないことがたくさんありそうです。

何か意見があればいろんな人と話したいよ〜〜〜〜

 

 

最近は寒すぎて家から出るのが億劫ですが、日を浴びないと死んでしまいそうなので引きこもらないように自分を外へ引っ張り出したいと思います。

 

それでは、みなさんも身体に気をつけてお過ごしください。

Hej då~~~!