三日坊主の三年日記

人生を、おもしろく

卑屈たっぷり、おいしいコーヒー

寒くなってきた。冬服のレパートリーが極端に少ないぼくにとって、寒い季節は厄介極まりない。

最近のぼくはというと、寒さも何かしら関係しているのか、ついつい卑屈になってしまうことが多い。

 

 

ぼくは今、大学で産学連携のプロジェクトに関わらせてもらっている。

中心となる研究員Aと、教授3人と、大学院生のぼくがプロジェクトメンバーだ。

ぼくは毎回の会議で発言することすらままならない。いろんな議論が飛び交い、ついていくだけで精一杯。無能すぎて、本当に逃げ出したくなる。

一方、研究員Aさんはとても賢い。問いを広げたり深めたりしながら教授の話をうまくファシリテートし、毎回いい感じに落ち着かせる。自身の知識も豊富で深くて、話してるといつもおもしろい。

ちょびっと毒づいているところも実はある。プロジェクトに全然貢献できていないぼくのことを、「頭の悪い院生は滅びろ」とかたぶん思っている。現に以前、「学会での院生の発表は大概くそ」と漏らしていたのを聞いた。

にも関わらず、ぼくのことを他人に紹介するときに、「この子はとても優秀なんですよ〜〜」と謎の持ち上げ方をしてくる。意味がわからなくて、ぼくは毎回「いや、全然そんなことないですよ〜〜!もう!」となぜかまんざらでもなさそうな返しをしてしまう。やめてほしい。

 

先日Aさんと2人で出張にいくことがあったのだが、道中でのAさんの話は相変わらずおもしろかった。ぼくはただただ聞いていて勉強になるから、「うんうんふんふんununfnfn」と相槌マシーンと化すのみ。そんな見方や考え方があるんだな、なるほどなと思いながら、ぼくはいつも虚しくなるのだった。

「なぜこの人は、ぼくみたいな話しても特に有益な返しのない人に対して惜しげも無くおもしろい話をしてくれるのだろう」

「この人はぼくの何を価値と思って接しているのだろう」

 

頭のいい人や、(ぼくからみて)魅力的な人と関わると、こんなふうに脳内が卑屈みたっぷりになる。

「頭のいい」「魅力的な」他者と、「頭のよくない」「魅力的でない」自分を比較して勝手に落ち込んでしまう。生気が吸い取られていってしまう。

 

 

このことをぼくの相方に相談すると、「人をひとつの評価軸で価値判断しすぎなんじゃない」と言われた。

確かに、その人が頭がいいからといって、他人に頭のよさだけを求めているわけではないかもしれない。ただ話を聞いてほしいのかもしれないし、たまには何の中身もないあほな話がしたいのかもしれない。勝手に壁を作って視野を狭くしていたのは自分だった。

 

 

 

 

 

 

 

先日、スウェーデン人の友達の家に遊び行くと、コーヒーを出してくれた。

友人は、コーヒーを心から愛していた。コーヒー豆を選び、挽くところから。味、香り、その時間や空間、コーヒーを通した人とも関わり、すべてを楽しんでいた。

 

今までコーヒーを単なる眠け覚ましとしてしか使ってこなかった自分が大層恥ずかしくなるほど、いただいたコーヒーは本当においしかった。

差し入れにもっていったパウンドケーキも一緒に食べ、コーヒーが甘いものととても合うことを初めて知った。

 

コーヒーの奥深さに触れ、世界がちょっと明るくなった気がした。

 

 

コーヒーに含まれる「カフェイン」という一側面だけを見て、「眠け覚まし」としてコーヒーを摂取していた以前のぼく。

友人と甘いものを食べ、おいしい時間を共有しながらコーヒーを楽しめるようになった新しいぼく。

 

ひとつの物事を一面からみて捉えるよりも、いろんな視点からみてみると、新しい自分に出会えるかもしれない。

新しい自分に出会い続けることで、人生はもっともっと色づいていくんじゃないかな、と少し思えた。

 

 

 

この友人のように、自分に今までなかった価値観を教えてくれたり、刺激や楽しさを提供できる人って素敵だなあと思う。

そんな人になりたいと思いながらも、自分は頭がよくないし高尚な趣味もオタク的な何かもない、とまた卑屈になりかける。

 

ぼくには頑張りたいことがある。何かに夢中になって生きることが、自分の人生にも、誰かの人生にちょっと色を足すことになるのかもしれないなと思いながら、今は目の前のことに没頭したい。